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長野地方裁判所上田支部 昭和61年(わ)55号 判決

主文

被告人両名はいずれも無罪。

理由

第一  公訴事実

本件公訴事実は、

一  被告人甲は、

1  昭和六一年三月二一日午前三時一〇分ころ、長野県更級郡上山田町〈住所省略〉所在○○アパート六号室において、殺意をもって、所携のけん銃でA(当三四年)の顔面に向け実弾一発を発射して命中させ、同人に脳挫傷の傷害を負わせて即時、同所において、死亡するに至らしめて殺害し、

2  法廷の除外事由がないのに、前記日時、場所において、回転弾倉式けん銃(三八口径)一丁及びけん銃用実包二発を所持し、

二  被告人乙は、前記甲が前記一の1記載の犯行を遂げるに際し、その情を知りながら、前同日時ころ、前同アパート付近路上において、周囲を警戒しながら見張りをし、もって、同人の前記犯行を容易にさせてこれを幇助したものである。

というのである。

第二  本件の概要

一  事件の発生

昭和六一年三月二一日午前三時一〇分ころ、長野県更級郡上山田町〈住所省略〉所在の暴力団山口組系近松組内B総業の事務所である○○アパート六号室(以下「現場」ともいう。)の奥六畳間において、当番中の組員のA(当時三四歳、以下「A」という。)が、何者かによって、至近距離からけん銃を撃たれ、実弾一発を鼻尖部に受け、脳挫傷の傷害を負い、即死した(以下、このことを「事件」という。)当時、上山田町では、BことC(当時四七歳、以下「B」という。)を首領とする右B総業と同じく暴力団で丙(当時三八歳、以下「丙」という。)をその支部長とする住吉連合武州前川一家D睦会上山田支部(通称丙興業、以下「丙興業」という。)が、同町内を自らの縄張りと主張して対立していた。

被告人甲は、D睦会の組員であり、被告人乙(以下「乙」という。)は、同会の会長D(当時四三歳、以下「D」という。)の舎弟で、近く組の新設を許されていた丁(当時三八歳、以下「丁」という。)の輩下にあった。

被告人両名は、事件発生の直前、丙、丁と共にBを探し求めて自動車で○○アパートに赴き、付近に駐車し、被告人甲、丙、丁の三名が被告人乙を残して右アパートに向かい、少なくとも、被告人甲は現場の六号室内に入り、Aが殺害された当時、その付近に居合わせて同人の血を浴び、約一〇分前後の後、右三名は、車に戻り、待機していた被告人乙と共にその場を去った。

二  被告人両名の自首及び捜査段階における供述

被告人両名は、事件発生の翌日の三月二二日午前一〇時二五分、一緒に更埴警察署に出頭し、被告人甲は、本件で使われたけん銃(押1、以下「本件けん銃」という。)及びこれに装填された実弾一個(押2)を持参、提出し、自らが右けん銃でAを射殺した旨申述し、被告人乙は、右犯行の際、被告人甲の指示に従い、丙興業事務所から○○アパートまで自動車を運転して同行した旨申述し、ともに事件の犯人として自首した。

そして、両名は、いずれも、捜査段階において、本件公訴事実にかかる自らの犯行を認めた。

三  被告人両名の公判開始後の供述

本件公判が開始されると、被告人甲は、第一回期日においては自らの公訴事実を認めたものの、第二回期日において、これを翻して否認し、Aを殺害したのは、当時、同被告人らと同行していた丁であり、同被告人は丁ら組織関係の指示に従って出頭した身代り犯人である旨積極的に主張するに至り、以後、同主張を変えることがなかった。

また、被告人乙は、第一回期日では、自らの公訴事実に対する陳述を留保し、第二回期日においては、公訴事実のうち、事件当時、被告人甲及び丙、丁と共に自動車で○○アパート前に赴き、駐車し、他の三名が同アパートに向かい、その後戻るまでの間待機していた事実は認めたものの、右三名の意図は知らず、したがって、その者の犯行のための見張りをしたことも、その意思もなかった旨述べて自らの犯行を否認し、その後、第一〇回期日に至り、公訴事実に対する陳述のやり直しを求め、その犯行を認める旨述べることとなったが、同陳述自体、甚だ曖昧なものであったうえ、同被告人の供述はその後も曖昧さを伴いつつ、目まぐるしく変転した。以上が、後記証拠により認めうる本件の概要である。

第三  検察官の主張

検察官の主張は、論告が、本件各公訴事実にかかる被告人らの各犯行について、動機、犯行に至る経過、犯行状況の全般にわたるものではなく、概ね証拠の検討に終始し、自ら事実関係を特定しようとしないため、不明な点が多いが、冒頭陳述をも併わせ考えると、その骨子は、一応以下のようになるものと解される。

本件事件が発生した上山田町内では、その前年の昭和六〇年一〇月ころから、B総業と丙興業が、それぞれ縄張りを主張して対立し、その間の軋轢が次第に硬化、拡大し、昭和六一年二月ころに至ると、Bは、B総業を率いて山口組系近松組の傘下に入り、同年三月一〇日未明、丙興業の事務所の外壁が爆発物様の物によって損壊される事件が起こり、丙興業側では、これをB総業側の仕業と判断した。

被告人甲は、D睦会の組員であり、被告人乙は、D睦会の幹部の丁の輩下であり、いずれも、当時、埼玉県内に居住していたが、右の丙興業事務所の損壊事件が発生した三月一〇日午後一一時ころ、同事務所に赴き、以後、同所に滞在することとなった。

被告人両名は、右事務所に到着すると、その夜、丙興業の組長代行のE(以下「E」という。)の案内で、数名の者と一緒に上山田町内で飲酒したが、その帰途、EがB総業の組員を認め、被告人甲らとともに追いかけ、同組員が放置した普通乗用自動車を同被告人が運転し、丙興業の事務所まで移動させる騒ぎが起こった。

B総業側は、直ちに警察署にその盗難届を出す一方、丙興業側に返還を求めた。被告人甲は、その夜のうちに、数名の者と共に右自動車を運転してB総業の事務所へ向かったが、途中、警察官の職務質問を受け、その派出所で取調べを受けることとなった。しかも、B総業側は、その後も丙興業に対して詫びを入れることを執拗に求めた。被告人甲は、Jから、右の自動車を持ち帰ったことについて、「余計なことをした。」と叱責され、Bを恨むこととなった。

そして、本件事件が発生した前日の三月二〇日の夕刻に至ると、被告人甲は、Bを呼び出して襲撃することを決意し、本件けん銃を準備し、被告人乙は、右襲撃の様子を見届けることとなり、被告人甲は、その夜、丙興業の事務所からB総業の事務所の○○アパート六号室に何度も架電したが、B本人と連絡をとることができなかった。

丙と丁は、そのころ、外で飲酒しており、丁が、B総業の事務所に架電し、その組長代行のFことG(以下「F」という。)に会見を申し入れ、同人と翌二一日午前一一時に会う約束を得た後、丙と丁は、同日午前二時ころ、丙興業事務所に戻った。

ところが、その後間もなく、丙が、「俺がやる。」と言い出して立ち上ろうとし、丁も、これを制止しつつも、「それなら俺が行くから。」と言い出し、互いに譲らず、結局、同日午前二時半ころに至り、両名は、ともにBの許に赴くこととなり、被告人両名もこれに従い、四名は、丙興業の普通乗用自動車(白色スカイライン)に乗って出発した。

四名は、間もなくBの住む上山田町〈住所省略〉所在の××マンションに到着し、全員下車してBの居室の三〇五号室に至り、丙、丁らが玄関のドアーを叩き、怒号するなどして開けるよう求めたが、応答がなく、続いて、Fの居室の二〇二号室に赴いて同様のことを試みたものの、やはり、応答がなかった。

被告人ら四名は、更にFを探して再び乗車し、事件現場の在る○○アパートに向かい、間もなく到着した。

一方、BとFは、当時、実際には在宅しており、Fは、右四名を丙興業の者と察知し、直ちにB総業事務所に架電し、当番をしていたAに「丙の連中が事務所へ行くかも知れないが、絶対ドアーを開けるな。」と命じた。

被告人らは、○○アパート前付近の路上に停車して全員下車し、被告人甲と丙、丁が同アパートに向かい、被告人乙はその場に残っていた。

被告人甲は、二階の現場の玄関前に至り、ドアーを叩き、「いませんか。」、「ちょっと開けて下さい。」などと申し向け、Aが内鍵を外すと、土足のまま室内に上り込んだ。そして、奥六畳間に至ると、同所において、抵抗するAの顔面を所携の前記けん銃の把で殴打するなどの暴行を加え、同人を南側窓際のレターケース付書庫脇の座布団の上に転倒させて尻餅をつかせたうえ、その前面から中腰でけん銃を構えて同人の顔面近くに突き出し、殺意をもって引き金を引き、弾丸を同人の鼻尖部から撃ち込み、同人を殺害した。

被告人乙は、○○アパート前で下車した直後、被告人甲から、「ドアーを開けて待っていろ。」と命じられ、同人がBを殺害するものと認識しつつ右命令に従い、付近を移動しながら見張りをし、被告人甲の犯行後の逃走に備えて前記自動車のドアーを開けるなどして待機し、右犯行を容易にさせた。

右犯行直後、被告人ら四名は、右自動車で逃走した。

なお、被告人乙の場合、右のとおり、犯行の対象が自らの予想と異なる結果となったものの、このことをもって、自らの犯行の故意を阻却するものではない。

第四  弁護人らの主張

一  被告人甲の弁護人は、要旨以下のとおり主張した。

(1) 被告人甲は、新聞の販売店と拡張団を経営していたH(以下「H」という。)の許で働いていたところ、同人が、昭和六〇年六月ころD睦会に入ったことから、同年九月ころ、不本意ながら自らも入会することとなったものであり、その後も、組員としての活動はしていなかった。

同被告人は、右Hから命じられて丙興業事務所に赴くこととなり、その後、丙やHに対し、何度も自宅に帰らせて欲しいと申し出ていたが聞き入れてもらえなかった。

同被告人らが右事務所に到着した三月一〇日夜、検察官主張のようにBの車を持ち帰る事件が生じたが、これは、その後、うやむやのうちに終ったものであり、同被告人が丙から叱られたり、Bを恨むような事態が生じたことはなかった。したがって同被告人には、BやAを殺害する動機がない。

(2) D睦会は、B総業との対立を深めた末、同月二〇日、すなわち、本件事件発生の前日の午後に至り、D、若頭のI(以下「I」という。)、丙、丁の四者が丙興業事務所二階で会談し、B総業に対して実力行使に及ぶことを決定した。そして、その直後、Iは、被告人甲に対し、本件けん銃を渡し、Bを呼び出して射殺することを命じた。同被告人は、これを拒むことができず、内心、Bに当らないように発砲だけして形を取り繕い、逃げ帰ることを考えつつ、B総業の事務所に架電し、Bを呼び出そうとしたが、相手側に無視され、結局、右企ては中止となり、丙から、その旨を告げられ、休んでいた。

ところが、丙と丁は、本件事件当日の三月二一日午前二時ころ事務所に戻ると共に、Bのタマを取る(命を奪う)ことを主張して譲らず、そのうち、Dから電話で一喝され、結局、二人でBを襲撃することとなり、この間、丁が被告人甲が持っていたけん銃を取り上げ、身につけた。

そして、両名は、被告人両名を従え、××マンションに赴いた。

右マンションでは、丙と丁は、検察官が述べるように喧嘩腰でBを呼び出そうとしたが、同人らは身を潜めていた。

被告人ら四名は、その後、○○アパートに赴くと、付近に駐車し、丙と丁が先ず下車して二階のB総業事務所に向かい、少し遅れて被告人甲もこれに従った。そして、丙と丁が巧みに声をかけ、Aがドアを開け始めると、力づくでこれを開け、事務所内に侵入した。そして両名は奥の六畳間に入り、Aに暴行を加えて制圧し、丙が、Aに対し、Bの所在場所を執拗に尋ねて責めたてた末、右けん銃でAを射殺した。被告人甲は、遅れて部屋に入り、その様子を見ていたが、丁の右犯行は、全く予想外の出来事であった。

(3) 被告人ら一行は、その後、丙興業事務所に戻ったが、その車中、被告人甲は、丙から丁の身代りとなるよう求められ、右事務所に戻ると、前記けん銃を渡された後、同人と丁と共に組員のJ(以下「J」という。)が運転する車で東京方面に向かい、途中、福生市内の丁の知り合いの女性の住むマンションの一室に立寄り、同所で再び丙と丁から右身代りを強要され、その後、東京都内でDやIらとも落ち合った後、被告人乙とも合流した。同被告人も、この間、丁から、被告人甲のために運転をつとめていた者として警察に出頭するよう命ぜられていた。そして、被告人両名は、その翌日の二二日、D睦会の事務所に赴き、Dから、警察で取調べを受ける際の対応の仕方や、同会がその後被告人らを支援することなどの指示や励ましを受けた後、同人らに車で送られて、更埴警察署に事件の犯人として自首するに至った。

このように、被告人両名は、いわゆる替玉である。

二  被告人乙の弁護人は、当初は、同被告人には本件公訴事実にかかる犯意も見張り行為も認められない旨主張していたが、最終的には、右公訴事実も検察官の主張も全面的に認めた。

第五  当裁判所の認定及び判断

一  事実関係

1  被告人両名の身上経歴

(一) 被告人甲は、昭和三七年八月二六日、北海道旭川市で炭坑夫をしていた父親の長男として生まれ、独り子として育ち、小学二、三年生のころ、両親と共に千葉県内に移り住み、父親はやがて縫製工場を営むようになったが、同被告人が中学二年生のころ倒産して家出し、同被告人自身は、中学時代をいわゆるツッパリグループに所属し、番長をつとめたり、暴走族に入るなどして過ごし、卒業後、喫茶店の店員をした後、東京都内に出て新聞販売拡張員として働いた後、一九歳時の昭和五六年ころ、暴力団住吉一家林睦会に入り、組員として活動していたが、会長の妻や目上の者との折り合いを欠くようになり、約三年後の昭和六〇年三月ころ、会を飛び出し、そのころ、同被告人より少し前にやはり会を脱け出ていた兄弟分のK(以下「K」という。)を誘い、同人と共にかつての雇主で、名古屋市と埼玉県内で新聞販売拡張業を営んでいたHを頼って名古屋市に赴き、同人に雇われることとなり、その後、埼玉県内でも仕事をするようになり、昭和六〇年一一月ころからは、以前から交際していた女性(ウエイトレス、当時二一歳位)と浦和市内のアパートで同棲を始めていた。

ところで、Hは、もともと暴力団志向が強く、D睦会の関係者を雇ったことが契機となり、昭和六〇年六月、自らDの舎弟として同会に入り、以後、同会に資金を供与し、時折、名古屋市から赴き事務所に顔を出すようになり、被告人甲は、同人から頼まれてその運転手をつとめるようになった。

Hは、やがて、D睦会における自らの体面を保つべくKや被告人甲にも会に入ることをしきりに求めるようになった。同被告人は、これを断り続けていたが、先ずKが懐柔され、同被告人は、同年九月ころ、その求めに応じてKとHに同行して運転手として同会の事務所に赴くと、同所ではすでにKと同被告人のために盃事が準備されており、同被告人は、右両名のため、拒み切れずにDから親子固めの盃を受け、同会の若衆としてその組員となることとなった。同被告人は、このように心ならずもD睦会に入ることとなったが、その後、事務所には、月に一、二度、Hの運転手として顔を出す程度で、組員としての活動や事務所の当番もせずに過ごしていた。このことは、Hを通してDにも了解されており、それ故、同被告人は、Dら会の関係者とは偶々顔を合わせる程度で組員としての交流は殆どなく、いわば、末端の構成員として過ごしていた。

それでも、同被告人は、Hから右事務所行きを求められる回数が増えるにつれ、これを嫌がり、同人と対立することが多くなり、やがて、同人から仕事や給料を断たれるまでになり、昭和六一年一月に入ると、Hの許を離れ、東京都内の別の業者の許で働らき始めるまでに至った。しかし、同被告人は、同年三月初旬ころ、Kに執り成され、Hの許に戻ることとなり、同人から給料名義で二〇万円を受領し、同人と一応縒りを戻していた。

なお被告人甲は、昭和五九年九月、傷害罪で罰金八万円に処せられていた。

以上の事実は〈証拠〉によってこれを認める。

(二) 被告人乙は、昭和二六年二月一七日、茨城県久慈郡で林業に携っていた父親の五男として生まれ、同胞六名と共に育ち、中学校を卒業後、東京都や同県内でプレス工や印刷工として、五年間余り勤め、その後、ガソリンスタンド、パチンコ店、サロン、キャバレーなどの従業員をした後、塗装工として職場を転々としつつ働き、この間、昭和四二年ころから勤務先のサロンで知り合った女性(当時二三歳位)と同棲を始めたが、昭和四七年一月、窃盗罪で懲役一〇月・二年間執行猶予の判決を受け、そのころ、同女と別れ、間もなく、同県常陸太田市に本拠を置く現在の住吉連合会大里一家の組員と知り合い、徒遊するうち、昭和五〇年一二月、傷害・強姦致傷罪で懲役三年六月に処せされ、昭和五三年六月まで服役し、昭和五六年ころに至り、同県那珂郡東海村に本拠を置く極東関口一家小林睦会高野組に組員として入り、的屋となったが、組長が事件を起こしたのを契機に組を抜け出し、昭和五九年ころ、刑務所で知り合った者を頼り、岩手県盛岡市に赴いて同所に本拠を置く暴力団奥州西海家谷一家に身を寄せ、的屋を続けたものの、約半年後、右仲介者を嫌って再び組を抜け出し、埼玉県内で塗装工として働くようになり、そのころ、同じアパートの肩書住居に住み、料亭の賄婦をしていた女性(昭和一四年生)と知り合い、間もなく、同女及びその子二人と共に暮らすようになった。

しかし、同被告人は、やがて、都内池袋に本拠を置く暴力団松坂総業に入ることとなり、その関係で、昭和六〇年六月ころ丁と知り合い、その舎弟となり、同年一二月ころから稼働を止めるようになった。

丁は、一六歳のころから暴力団に関係するようになり、昭和五九年夏ころには前記林睦会に所属し、被告人甲とも顔見知りであり、被告人乙と知り合った当時、一〇名余りの愚連隊を率いていたが、昭和六一年一月末ころDの舎弟となり、同人からは、近い将来に埼玉県川口市内に自らの組を設けることを許されることとなり、被告人乙ら輩下の者は、丁に従ってD睦会に入った。そして、新設される丁の組では、L(以下「L」という。)が組長代行に、同被告人が、その補佐に、鈴木某が相談役になることに決まり、その他、組員にはM(以下「M」という。)とN(以下「N」という。)もいた。被告人乙は、このように丁と共にD睦会の事務所に出入りするようにはなったものの、その組員としては未だ本格的な活動はせず、幹部の者には余り知られずに過ごしていた。

以上の事実は、〈証拠〉によってこれを認める。

(三) そして、前記被告人甲及び同乙の各供述並びに被告人乙の61・4・19付検面(甲68)によると、両名は、後記のとおり、昭和六一年三月一〇日に丙興業事務所に赴くまでの間は、同月初旬ころ、D睦会の事務所で偶々顔を合わせた程度の顔見知りの間柄に過ぎなかったことが認められる。

2  事件の背景

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

本件が発生した上山田町では、その前年から、B総業と丙興業との間で、いわゆる縄張り争いが生じ、それが次第に抗争化していた。その経過は以下に述べるとおりである。

Bは、昭和四〇年ころ、当時、上山田町に事務所に構えていた暴力団上州共和一家小政組の組員田中直次郎の舎弟となってその道に入り、以後、同町内で活動を続け、昭和五三年一〇月、当時所属していた山口組系清水組八生会佐々木組から独立してB総業を設立し、上田市に事務所を構え、翌年、事務所を上山田町内の本件事件現場の○○アパート六号室に移し、昭和五五年ころ、右八生会を出てB総業を山口組系二代目清水組に所属させ、昭和五九年に山口組が分裂して一和会が出来ると右清水組に従い、これを同会に移し、一和会系二代目清水組内B総業と改称し、佐々木和彦が率いる右佐々木組と上山田町内を二分する形で、飲食店などから死守料や額等のリース料を徴収していたが、同年七月、賭博開帳図利罪で逮捕され、同年九月、懲役一年二月に処せられて服役し、昭和六〇年一〇月出所したところ、この間に山口組と一和会の間に抗争が生じており、当時、兄貴分の前記田中直次郎がすでに名古屋市に本拠を置く山口組系弘道会の幹部となっていたことから、同人に敵対する陣営に身を置くことを憚り、出所直後、清水組を脱退し、その後の身の振り方を田中に委ね、いわゆる同人預かりの身となったまま、代行のF以下、Aを含む数名の輩下を擁し活動を始めていた。なお、佐々木組は、Bの出所後、間もなく八生会を出て上山田町内での活動を止めることとなった。

Dは、昭和四三年ころ、住吉連合武州前川一家に入り、昭和五八年ころ、自ら高輝会を作って埼玉県戸田市内に事務所を設け、昭和六〇年、同会をD睦会と改称した。

Dは、この間に広島県内で暴力団に関係していた丁と知り合い、昭和五八年九月ころ、同人を自らの舎弟とし、Eら数名の輩下と共に上山田町に派遣して住まわせ、昭和五九年に入り、自らが所属する武州前川一家の総長が、関東系の博徒の間で同町のシマ持ちとされていた上州共和一家の総長との話し合いで、同町での活動を許されると、これをD睦会で受け持つことにし、Bが入所中の昭和六〇年三月ころ、約三〇〇〇万円を投じ、同町温泉○丁目×番地△所在の二階建建物を賃借して上山田支部(丙興業)事務所を設け、丙をその長とし、代行のE以下数名の組員を擁して本格的に活動を始め、飲食店から額のリース料名下の金員を徴収し、その対象がB総業のそれにも及ぶこととなった。

そして、Bの出所後は、B総業と丙興業(D睦会)は、同町内で縄張りをめぐって対立し、次第に紛争化し、B総業側は、先住者としての権利を主張し、これに対し、丙興業側は、自らを上山田町のシマ持ちから活動を許された正統な継承者と主張し、B総業を上部組織を持たない愚連隊と看倣して無視しようとし、昭和六〇年一二月に入ると、丙興業側は、B総業の組員を自らの事務所に拉致し、暴行を加える事件を起こすまでに至った。

このような経過の中で、D睦会とB総業は、同月、Bの兄貴分の田中の計らいで上山田町内の小料理屋で話し合いの機会を持ち、D睦会側は、D、若頭のI、丙が、B総業側は、田中、佐々木、Bらが出席し、Bらは、両者の共存共栄を提案したが、Dらは、これを拒否し、B総業の同町からの退去を求めて譲らず、話し合いは決裂することとなった。そして、その日のうちに、双方は抗争に備え、Dらが、武州前川一家所属の組員三〇名余りを、田中らが、弘道会の組員八〇名余りを上山田町内に集めたが、Bや田中に対しては、長野市に本拠を置き一〇〇名前後の組員を有する山口組系の近松組の組長が実力行使を控えるよう命じ、また、上州共和一家の方でも右縄張り争いを一時預かる旨を表明したことから、数日後、双方とも右の集めた組員を引き揚げさせ、一応事なきを得た。

Dは、同月二〇日過ぎころ、上州共和一家の代貸の口利きを得て、B総業の撤退を期待しつつ近松組の事務所に赴いたが、近松組長からは、B総業との共存共栄を強硬に求められ、これを断って帰り、その後も一貫してB総業側に対し、撤退を求め、それまでの主張を変えようとしなかった。

かくして、双方は日を追って緊張の度を強め、D睦会側では、Dが同年暮れころから翌昭和六一年二月にかけて連日のように山口ら直近の輩下を従えて丙興業事務所に詰めて陣頭指揮に当り、一方、Bは、同年一月下旬ころ、輩下を従えて近松組に入り、B総業は、その傘下に入ることとなった。

このように膠着状態が続くうち、やがて、Dや丙らは、D睦会が上山田町から撤退する旨の街の噂を耳にするようになり、苛立っていたところ、更に、同年三月一〇日未明に至り、丙興業事務所の二階が何者かによって散弾銃のようなもので射撃され、窓ガラスと外壁の一部が破損する事件が起こった。丙は、右二階の部屋に自らの内妻や子供らが居住していたこともあって、激怒し、これをB総業側の仕業と考えたが、確証を掴めず、組の方針に従い、警察署に訴えることもしなかった。

しかし、Dは、同日、Jからその知らせを受けると、これを重大視し、抗争に備え、その日のうちに丁やHに指示して自らの本拠地の埼玉県内とHらの住む名古屋市から、被告人両名を含む七、八名の者を丙興業事務所に応援のため派遣した。

当日、被告人甲は、埼玉県蕨駅付近でHと食事中、同人が偶々名古屋市の事務所に連絡をしてKを通してDからの指示を知り、その場で、Hから上山田町行きを命ぜられ、独りで、被告人乙は、丁から同様に命ぜられ、鈴木、Mと共に、それぞれ、同日午後一一時前ころ、丙興業事務所に赴き、名古屋市方面から来ていた徳田、Kと埼玉県から来ていたL、Nらと合流した。

被告人両名は、その夜、右の仲間四、五名と共にEの案内で街に繰り出したが、その折、Eが、偶々、B総業の組員の野口貞之を認め、声を掛けて牽制し、同人が路上に駐車していたBの自動車を捨てて逃げ去ると、被告人らは、Eの指示に従い、同車を持ち帰ることにし、全員が乗車し、被告人甲が運転して丙興業事務所の駐車場まで運んだ。

B総業側は、事件を知ると、直ちに警察署に右の車の盗難届を出し、間もなく、真相を知ると、丙興業に返還を求め、丙興業は、これに応じ、被告人甲及びEほか二名の者が再びその車に乗り、同被告人が運転して返還に赴いたが、その途上、警察官の職務質問を受け、更埴警察署上山田幹部派出所まで同行を求められたうえ、同所で取り調べを受け、丙も同所に赴き、事情を聴かれることとなった。

しかし、この事件は、右警察署から連絡を受けたBが直ちに同署に赴いて被害届を取り下げ、その後、B総業側から丙興業に対して謝罪を求めたものの、丙興業側が適当にこれをあしらい、無視して過ぎるうち、B総業側で、この事件の処理に当っていた杉本が行方不明となり、刑事事件として取り上げられることも、丙興業が謝罪することもなく、数日後、曖昧な状況となったまま終ることとなった。

そして、同月一五日頃に至ると、Bは、以前から付き合いのあったスナック「林肯」(リンカーン)に自らの服役中に丙興業が額を置き、リース料を徴収していることに反発し、輩下のFほか三名に命じ、その額を取り外して丙興業事務所に届けさせ、Fらが、「林肯はうちで面倒を見ているから返す。」と申し向けて右額を応対したEの前に放り出して帰り、B総業は、翌日、右スナックに自らの額を取り付けた。

このような事件が発生する中で、丙興業側では、同月一六日ころ、DとIが、その翌日ころ、丙が相次いで事務所を訪れて滞在し、丁は、その日又はその翌日早朝に、被告人乙らを連れて帰り、再び事務所に戻ってDらと合流することとなった。

しかし、被告人両名を含む応援の組員らは、右事務所に赴いて以後、概ね所用もなく過ごし、このうち、Kは口実をもうけて名古屋方面に帰ったまま戻らず、その余の者も適宜、幹部らの許しを得て、或いは、これに随行して、自らの居住地とを往来し、被告人甲だけがそのまま滞在を続けるうち、本件事件が発生する三月二一日を迎えるに至った。

以上の事実が認められる。

被告人両名は、後記のとおり、本件捜査段階において、それぞれ、丙興業事務所に赴いた経過について、偶々街中で知り合ったIから勧められて確たる目的もなく応じた旨供述し、被告人甲は、同じく、三月一四日に本件けん銃を取りに自宅に戻った旨供述するが、右各供述部分は、前掲の被告人両名及び証人D、同丙、同丁の各供述に照らすと、虚構のものであることが明らかであり、また、証人Iは、自らが三月一二日ころ、丙興業事務所に赴き、その後同月二〇日まで滞在し続けた旨供述するが、同供述のうち、少くとも同人が一六日ころにDの車を運転して同人と共に戸田から丙事務所に赴いた事実を否定する部分については、前掲の被告人両名及び証人D、同丙の各供述に照らして措信し難く、他に右認定に反する証拠はない。

3  事件発生に至る経過

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

丙興業事務所では、三月二〇日午後、D、I、丙、丁の四者が二階で二時間前後会合し、その席上、B総業側との対応の仕方なども話題となり、その後、B、I、Eは、同日午後六時過ぎころ、Iが運転する車で戸田市に向けて出発し、同日午後一〇時過ぎころ、事務所に着き、解散した。

一方、丙興業事務所には、Dらが去った後は、丙、丁、被告人両名、M、N及び丙直属のJ及び中原勝利が残った。

丙と丁は、Dらを見送った後、同日午後七時過ぎころ街中のスナックに出掛けることとなったが、そのころ、事務所では、その経過は別として、被告人甲がBを街中の何処かに呼び出して殺害することとなっていた。

そして、丙と丁は、少なくともこのことを了知しながらこれを止めようとはせず、また、同被告人にその理由や殺害の手段、方法等についても何ら具体的に質することもなく、丙は、被告人乙に対し、被告人甲に同道し、その遂行を見届けるよう命じて事務所を出た。

その後、被告人甲は、Bを呼び出すべく事務所からB総業事務所に再三架電し、当番に当っていたAやFにBとの連絡を求め、丁も、丙と共にスナック「ルパン」、続いて同じく「唐変木」に赴き、飲酒しながら、被告人甲に同様に架電し、Bとの面会を求めたが、いずれも、相手に警戒され、同人と連絡が取れずに経過した。そして、同日午後一〇時ころに至ると、丙は、被告人乙とLを右「唐変木」に呼び寄せて酒席に加え、丙は遅くとも翌二一日午前零時ころまでの間に被告人甲に連絡し、B殺害を中止するよう命じ、同被告人は、これを了解し、事務所奥の部屋で中原と二人で休息を取り始めた。

丁は、この間、被告人乙らと合流した後もなおB総業に架電し、Fに対してその夜のうちに会いたい旨告げていたが、Fは、Bから忠告されて警戒し、翌二一日午前零時前後ころ、出先から丁に架電し、同二一日午前一一時に会う旨告げたものの、真実は、その意思はなかった。

丙、丁らは、そのころ、更に店を変え、Jをも呼び寄せて過ごした後、二一日午前二時ころ、J運転の車で事務所に戻り、Jは、その後、自らのアパートに帰った。

ところが、丙と丁は、戻ると間もなく、ともに自らがBの許に赴くことを主張して大騒ぎとなり、押問答を繰り返し、結局、同日午前二時四五分ころ、一緒に赴くこととなり、被告人両名がこれに従い、四名は、被告人甲が運転する自動車(ニッサンスカイラインGT、フロアーシフトギアー車)で出発し、約三五〇メートル離れたBの住む「××マンション」に向った。被告人甲は、その時、通称「ベトコン服」といわれるモスグリーン色の上下の服を着ていた。なお、右四名のうち、丙を除く者は、Bの顔を知らなかった。また、被告人乙は、運転免許がなく、日頃車を使用するときは、輩下のNにさせ、自らが敢えて運転を試みるときは、ノークラッチのものに限っていた。

四名は、間もなく、右マンション(鉄筋コンクリート四階建)に到着し、その前に駐車させ、丙と丁は、先に立って階段を昇り、三階のBの部屋の玄関前に至ると、鉄製の扉を激しく叩いたり、蹴ったりしながら、大声で「おい、B、出てこい。」「こら、開けろ。」などと怒鳴り続け、数分しても応答が得られないと、今度は二階のFの部屋に赴き、同様のことを繰り返し、「おい、F、出てこい。」などと怒鳴り続けた。

右の物音や怒鳴り声は、周辺に響き、BとFは、当時、いずれも在宅していたが、忽ち、これを丙興業側の襲撃と判断し、鳴りをひそめ、被告人両名は、アパートの住人の目を憚ったり、近くに在る更埴警察署上山田幹部警察官派出所に知られることを恐れたりしながら、階段を昇降したり、駐車した自車の周辺を徘徊していた。

このようにして、一五分前後が経過すると、丙と丁は、更にBを求めて○○アパートに赴くことを決め、被告人両名を従え、再び乗車し、約三〇〇メートル離れた同アパートに向けて出発した。

BとFは、この間、互いに連絡を取り合い、Fは、丙らが出発する少し前、○○アパートに架電し、当時、独りで当番に当っており、電話口に出たAに対し、「今、俺の部屋の外で丙の連中が来て、玄関の戸を蹴飛ばしている。」、「事務所に行くかも知れないが、絶対にドアを開けるなよ。」「鍵を掛けておけ。」と警告し、Aは、「わかりました。」と答えた。Bは、その後、不安に駆られ、午前三時一五分ころ、再び右事務所に架電したが、Aが電話口に出ることはなかった。

一方、被告人ら四名は、前記のとおり、FがAと電話しているころ、××マンションを発ち、間もなく○○アパート前に到着した。

右アパートは、別紙見取図第1図のとおり、東西、南北に通ずる道路が交わる十字路交差点の北西角に在り、床面積約一三〇平方メートルの木造二階建で、一、二階が各四区分されており、その東側と南側は別紙見取図第2図のとおり、高さ約〇・八五メートルのブロック塀で囲まれ、事件現場の六号室のB総業事務所は、別紙見取図第3図のとおり、建物の東南角から八メートル余り西側に設けられた鉄製の階段を昇った二階東南角部分の、同図面に赤斜線で表示された部分に在る。

被告人ら四名は、右アパート前付近に至ると、全員が下車し、丙、丁及び被告人甲の三名は同アパートの階段方面に向かい、被告人乙は、同アパートの東南角から一七メートル前後離れた右交差点の南東角入口付近の東側の車線上(別紙見取図第1図の小林良一所有の駐車場の西側)に南向きに駐車させた同人らの車の付近に独り留った。そして、その後、一〇分前後が経過した午前三時一〇分ころに至り、右三名が戻り、被告人ら一行は、全員乗車して立去り、間もなく丙興業事務所に戻った。

被告人らが右アパートを去った直後のころ、××マンションでは、Bが前記のとおりAとの連絡を取ろうと架電したが、通じなかったため、タクシーを呼び、同日午前三時二〇分ころ、Fと共に右アパートに向かい、待伏せを警戒してその周辺を回遊させながら様子を窺った後、午前三時三〇分ころ、到着し、右事務所に入った。そして、同人らは、右事務所奥の現場六畳居間で、後記のとおり射殺されているAを発見し、連絡を受けて出動した救急車は、午前三時四三分に○○アパートに到着し、間もなく、救急隊員によりその死亡が確認された。

以上の事実が認められる。

右認定に反する証人Iの、三月二〇日午後の丙興業事務所二階の前記の四者会談が全くなかった旨の供述部分は、前記2の、右当日に至るまでの経過並びに前掲被告人甲及び証人D、同丙、同丁の各供述に照らして到底これを措信し難く、また、被告人両名の捜査段階における後記各供述部分すなわち、本件事件現場の○○アパートには被告人両名のみが丙興業事務所から直行して赴いた旨を骨子とする各供述部分は、前掲被告人両名及び証人丙、同丁、同李、同松本の各供述並びに李、松本及び越迫の各捜査官に対する供述調書に照らすと、虚構のものであることが明らかであり、他に右認定に反する証拠はない。

4  事件現場の状況とAの殺害のされ方等

(一) 室内の様子

〈証拠〉によると、以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

B総業事務所の○○アパート六号室の間取り及び当時の主な家具類等の配置状況は別紙見取図第4図のとおりであり、玄関の上り口には、スチールパイプ枠、布張りのクロススクリーン(衝立)が玄関に正対して立てられていた(なお、便宜上、六畳居間部分の拡大図として別紙見取図第5図及びその概略を示すものとして見取図第6図を添付する。)。

各部屋を仕切る建具は三畳間東側が障子で、その余は全て襖であり、外部への開放部分は、玄関扉がデコラ張り木製で、その余は全てガラス戸であり、六畳居間の南側部分は障子戸との二重窓となっている。

BとFは前記のとおり、被告人両名らが立去って間もなく現場に赴いたが、当時、右六畳居間は、丸型二燈式の蛍光燈が点いており、西側の応接間と玄関に通ずる襖部分は南方の一枚分が開かれ、東側の勝手に通ずる襖部分は北方の一枚分が開かれていた。

そして、右六畳間は、略右見取図が示すような形で、電気炬燵が裏返り、布団が乱れ、電話器が横転し、そのコードが外されていた。

しかし、その他の部屋は乱れておらず、また、右六畳居間も含めて、各室の家具や建具等に目立つような損傷は生じていなかった。

(二) Aの状態と死因

〈証拠〉によると、以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

BらがAを発見した当時、同人は、何者かに殺害されて間もない状態にあり、六畳居間の南窓際の略中央辺に置かれた座布団上に身体の正面を西向きにして腰を落し、両肩をその東側のレターケース付書庫の西側面にもたれ掛けさせ、その上面に、頭部を仰向けに、やや右に傾斜させて載せ、両脚を略西方、やや北側に伸ばしていた。

同人は、相手から、本件けん銃で、数センチメートル先から鼻尖部を射撃されたもので、その射入口周囲には火傷及び炭末片の陥入があり、黒色煤片により汚染されていた。弾丸は、右射入口から頭蓋内の略中央辺をやや斜め上方向に貫通して後頭部の表皮直下まで達しており、同人は、この射創による脳挫傷により即死していた。

本件けん銃は、被告人甲が、その後、自首した際に持参しており、三八口径、五連発・回転式の安全装置のない、スミスアンドウエッソンSPL名の密造されたものである。

Aの身体には、その他、〈1〉前額部右端、左外眼角部、右耳下部、胸部(前部と左右側部)、左右上肢、左手中指、右下肢等に擦過傷や打撲傷があり、〈2〉顔面の右頬部に一個所、〈3〉左頬部に三個所、それぞれ圧迫痕があり、〈4〉上口唇内側の粘膜に右〈2〉、〈3〉の各口部周囲圧迫に伴って生じたとみられる挫裂創があり、また、頸部と腹部には表面損傷はないが、内部の甲状腺右半周囲軟部組織には軽度の打撲ないし圧迫により生じたものと推定される出血があり、臍部位置に相当する後腹膜下に打撲ないし圧迫によるものとされる重度の出血があり、いずれも生前中に生じたものと推定される。なお、Aの血液型はA型である。

(3) Aの血液の流出、飛散状況

〈証拠〉によると、以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

事件直後のころ、Aが頭部を載せていたレターケース付書庫の上面及び西側面には、同人の傷口から流出した多量の血液が広がり、垂下して付着し、これが更にその下のカーペットに滲んでいた。

そして、南窓際の前記座布団の中心を基点とすると、略北方から東方にかけて、カーペット、敷布団、灰皿、印鑑箱等の上や食器戸棚、戸棚の西側面には、Aの傷口から噴出、飛散した飯粒大から粟粒大の血痕が無数存在し、それが東北方面に比較的密集し、それが少なくとも五〇センチメートル前後から一七〇センチメートル先方に達し、また、右東北方面の血痕には南西、すなわち、右基点方面から飛来したことを示す形状のものが幾つが存在した。

更に同人のズボン上にも血液が相当付着し、その右足の首部表側から甲部にかけて多数の血痕があり、(〈証拠〉)、甲部上のものは、脚の内側から外側に向けて付着した方向性を示していた。

なお、東南部に置かれていた印鑑箱の北側下付近には血痕が殆ど存在しなかった。

(四)被告人甲の臨場

〈証拠〉によると、本件事件後間もなく行われた現場検証の結果、現場の六畳居間の北西角に置かれていた洋服だんすの東南角、中央よりやや下に被告人甲の左中指の指紋が検出されたことが認められ、また、〈証拠〉によると、被告人甲が事件の発生の当夜穿いていたズボンの腰から約三〇センチメートル以下の両脚部前面に粟粒大のAと同じA型の人血の痕跡が右脚部は殆ど内側に左脚部は主として外側に略一様に、左脚の下部辺に比較的多数存在したことが認められる。

そして、右の各事実に〈証拠〉を併わせると、被告人甲は、自ら供述するとおり、いずれにせよ、Aが銃弾を浴びた当時、現場に居合わせ、その際、同人の血を浴びたものと認められ、これに反する証拠はない。

(五) Aの被弾当時の状況

以上(一)ないし(四)の各事実に前記(四)に掲記の各証拠及び〈証拠〉を併わせると、Aは、被弾当時六畳居間南窓際の前記座布団の辺りに窓を背にし、北側を向いて腰を落とし、少なくとも、右脚は前方の北方に向けて伸ばしていたこと、犯人は、Aの向かい側、すなわち、その北方から、同人に対し、本件けん銃をその鼻先に突きつけたうえで、引き金を引き、銃弾を発射させたこと、このAの体勢と被弾態様は、同人が、その当時、相手に完全に制圧された状態にあったことを窺わせること、同人は、被弾直後、少なくとも数秒間は顔面を北ないし北東方面に向け、その傷口から自らの血液を噴出させたこと、そして、被弾と同時に重篤状態に陥り、もはや自ら身体を動かすことはできなくなった筈であることがそれぞれ、認められ、この認定を左右すべき証拠はない。

5  事件後の経過

(一) 被告人両名が自首するまで

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

丙、丁及び被告人両名は、前記のとおり、本件事件が発生した直後に○○アパートを離れ、その後間もない三月二一日午前三時一五分前後に丙興業事務所に戻った。

そして、丙は、間もなく、アパートに帰っていたJに連絡して同人にその車(黒色クラウン)を準備させて呼び出し、丙、丁及び被告人甲は、同日午前三時三〇分過ぎころ、Jの車に乗り、同人に運転させ、東京方面に向けて出発した。

この四人の早朝の東京行きは、各人とも全く予定外の行動で、かつ、慌だしいものであった。すなわち、Jは、前夜飲酒を共にした後、翌二一日午前二時過ぎころ、丙らを事務所に届けて帰宅して、休んでおり、また、Jは、右のように丙の指示に従って出発したものの、後記のとおり、途中でガソリンが尽き、高速道路から下りて被告人甲と共にそれを求め歩くこととなった。丁も、東京から戻ったばかりで、前日Dらを見送った当時、少なくとも二、三日はそのまま滞在するつもりでおり、また、前記のとおり、B総業のFにも当日午前中に会う約束をさせていたところ突然の出発となったことから、東京から戻る際に着けていた自らの衣服も事務所に残したまま、輩下の被告人乙らに自らの出発を知らせることもしなかった。被告人甲は、この間、自らの身の囲りの物を紙袋に入れ、その経過は別として、A殺害に使われた本件けん銃を事務所二階にあった枕カバー(押3)に包み、これを右紙袋に収めていた。そして、丙、丁、被告人甲は、当夜外出した侭の服装で出発した。

被告人甲らは、先ず、松本方面に出た後、中央高速道路に入り、東京方面に向ったが、D睦会の在る戸田市へ赴くとは異なり、不慣れな道程となったことから、途中道に迷う事態も生じた。

一方、事務所に残った被告人乙は、不安な思いに駆られ、落ち着かずに過ごしていたが、丁は、右高速道路に入る前の同日午前五時前、同被告人に電話し、その輩下らと一緒に荷物をまとめて丙興業事務所を引き揚げ、埼玉県内に帰るよう命じた。同被告人は、これに従い、その後間もない午前五時ころ、仲間のN、M、Lと共にD睦会の自動車(クライスラー・ダッヂ、紺色)で、Nに運転させて出発した。このようにして、D睦会の者は、事件発生の直後のころ、丙直属の中原ら一、二名を残し、大部分が相次いで上山田町を離れることとなった。

被告人乙らは、国道一八号線を経て埼玉県に向かい、約三〇分後、上田市内で、事件発生を知り検問に当っていた警察官から職務質問を受け、一時間余り事情を聴かれることとなったが、旅行者を装い、嘘言を弄して取り繕い、その場を逃れて帰行を続け、同被告人は、同日午後二時ころから草加市で過ごした後、午後七時ころ、川口市の自宅に帰った。

被告人甲ら一行は、中央高速道路に入ったが、間もなく、燃料を切らし、山梨県内に入ったころ、一旦高速道路を降り、付近の駅前に停車させ、被告人甲とJがタクシーでこれを買い求めて補給し、再び右高速道路に入って進行を続け、午前九時ころ、丙が、Dに架電して連絡を取り、その後、丁の指示で、八王子インターチェンジで高速道路を降り、福生市内のマンションに住む同人の知り合いの女性の許に立寄った。

四人は、同所で一時間前後を過ごし、その間、丙、丁、被告人甲は、Jをダイニングルームに残して玄関脇の和室に出入りして会談し、丙は、午前一一時ころ、再び電話でDと連絡を取った。

そのころ、すでに、長野県更埴警察署は、本件事件をD睦会の者によるものと睨み埼玉県蕨警察署を通してDを追及し始めており、Dは丙に指示し、被告人甲ら一行は東京都内でDと落ち合うこととなった。

そして、一行四人はJの車を右マンションの駐車場に放置し、タクシーで都内に赴き、戸田市から出て来たD及びIと落ち合い、六名は、近くに在るDの知り合いの暴力団事務所に赴き、しばらくして、その組員の住む神田のマンションの一室を借りることになり、同日昼過ぎ同所に移った。

ところで、A殺害の真犯人が誰であるのかは別として、少なくとも、事件発生後、右関係者間において、被告人甲が自らをA殺害の犯人として扱われることを認めたのは、前記福生のマンションに至って以後のことであり、遅くとも、右神田のマンションにおいては、同被告人が右犯人として自首することとなった。しかし、この間、右関係者が、同被告人を糾問したり、叱責したり、或いは、犯行状況を具体的に質したり、兇器の本件けん銃の出所や携帯のいきさつ等を質するようなことはなかった。

DとIは、前記神田のマンションで被告人甲らと三〇分前後過ごした後同人らと別れ、蕨警察署に赴いた。Dは、同所で、捜査官から、本件事件現場で、犯人と思われる少なくとも二人の者が目撃されている旨を告げられ、その者を出頭させるよう求められると、未だその者がD睦会の関係者か否か判っていないこと及びもし、そうであれば必ず出頭させる旨答えて時間稼ぎをし、戸田市の事務所に帰ったが、同所には、すでに更埴警察署員が待機していたため、観念し、事件がD睦会の者によるものであることを認め、二名の者を出頭させることを約束し、引き揚げさせた。

Dは、その後、神田のマンションに架電し、丙に対し、警察官の指示に従い、本件の犯人として二人の者、すなわち、被告人甲のほかにもう一人を出頭させるよう命じた。

丁は、これを受け、被告人乙を被告人甲に同道した運転手として出頭させるべく、同被告人の自宅に連絡し、当初は、同被告人が前記のとおり寄り道し、未だ帰宅していなかったため、連絡が取れなかったが、その後、ようやくこれを得ると、同被告人を呼び出し、同被告人は、午後七時三〇分ころ、自宅を出て都内板橋駅付近に赴き、丁と落ち合った。

そして、丁は、同被告人に自らの右の意図に従うことを了承させ、同日午後九時過ぎころ、同被告人を連れて前記神田のマンションに戻り、丙や被告人甲らと再び合流した。

右関係者間では、当初は、被告人両名を数日後に自首させることになっていたが、その後、Dは、丙らに対し、二人を直ちに出頭させるよう指示し直した。

それでも、丁は、被告人両名を連れて外出し、自らの費用で二人を売春婦(ホテトル嬢)と遊ばせるなどしてねぎらった後、翌二二日午前二時ころ、右マンションに戻ると、初めて、右Dの指示を告げた。また、丙も遅くとも、同所を発つまでには、被告人甲に一〇万円を渡していた。

そして、丙、丁及び被告人両名は、同日午前三時過ぎころ、タクシーで戸田市に向かい、同市戸田橋付近のファミリーレストランで、D、I及びHと落ち合い、丙と丁は、同所で一行と別れて引き返し、被告人両名は、Dらとその事務所に赴き、午前五時ころ、同所に到着した。

被告人両名は、同所でD、I、Hらと約一時間を過ごし、Dは、被告人らのために、記念のポラロイド写真を撮ったり、被告人甲に対しては服役中、その両親に毎月一五万円宛送金することや出所後に然るべき地位を与えることなどを言い聞かせ、Iは、Dの指示で被告人両名のために下着や洗面用具等を買い揃えた。

そして、被告人両名は、同日午前六時ころ、Iが運転する自動車にDと同乗し、武州前川一家関係者約二〇名が乗った五台の車に護られながら長野県に向かい、途中、Dからは各二〇万円を手渡され、更埴警察署から赴いた警察官らに同道され、長野県内に入り、食堂で飲食した後、同日午前一〇時二五分ころ、更埴警察署に本件けん銃と実弾一個を持参し、本件の犯人として自首した。

なお、被告人甲は、事件発生当時着用していた前記の通称ベトコン服上下のまま上京したが、右自首時にはそのズボンだけを持参し、上衣は持参しなかった。

また、同被告人は、右自首当時、身体検査を受けたが、外見上何ら異常は認められなかった。

以上の事実が認められる。

もっとも、証人O(二〇、昭和三一年生)は、被告人甲ら一行が立寄った福生市のマンションの丁の知り合いの女性として、同被告人らは午前七時四五分ころ来訪し、二、三〇分後に出発し、その間、玄関脇の和室を使用したことも丙が電話を使用したこともなく、また、同被告人らが置き去った自動車のことも知らない旨供述する。

しかしながら、右証人は、証人丁が当の女性として述べる「田中ひろ子」と氏名を異にするばかりでなく、両者の供述にはそれまでの交際状況についても無視し難い相違があるうえ、被告人甲と証人Jは、当の女性が証人Oと年齢の程や風ぼうを異にする旨の供述をしており、これらによると、その同一性についてさえ疑問が生じかねないものであり、証人Oの右供述は、その余の点を含めて、被告人甲及び前掲各関係証人に一致する供述部分と大幅に相違しており、その前後の経過事実に照らすと、いずれにせよ、これを措信しえないものである。

また、以上の認定に反する被告人両名の捜査官に対する各供述も前掲各証拠に照らして到底これを措信しえない。

(二) その後の抗争経過

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

本件事件発生後間もない昭和六一年三月三一日正午ころ、戸田市内のD睦会の事務所内で、幹部のEが、何者かにより、けん銃で撃たれて重傷を負った。

D睦会は、直ちに、これを近松組の関係者による報復と決めつけ、住吉連合会やその関係者の応援を得て、上山田町内に、二〇〇名余りを集結させ、抗争体制を備えた。

その三日後の四月三日午後零時五五分ころ、長野市内の路上で近松組幹部の大日方善彦がけん銃で撃たれて殺害された。

D睦会側の組員は、この事件が起こる直前に上山田町を引き揚げ、その日のうちにIとJがその犯人として逮捕され、両名は、その後、Iが実行者として、Jが同人のために運転をつとめた幇助者として判決を受け、これが確定するに至った。

証人Iは、自らが右犯行の際、本件けん銃と全く同種、同型のスミスアンドウエッソンSPL名入りのものを使用したことを認めている。

更に、右事件の約一〇日後の同月一四日午後一時三五分ころ、警察官が警備中の丙興業事務所前に近松組博龍会幹部の三井こと洪明華がトラックで乗りつけ、同事務所にけん銃二発を撃ち込む事件が発生した。

このように、B総業と丙興業間の抗争は、近松組とD睦会の規模に発展した後、同年四月下旬、山口組と住吉連合会の上層部の話し合いが行われ、現状連結(「五分に手を打つ」)とすることで終結した。

以上の事実が認められ、これに反する証拠はない。

(三) 被告人両名の捜査段階における各供述

(1) 被告人甲の供述

〈証拠〉によると、同被告人の捜査段階における供述には、以下イ、ロのとおりの一貫性のある部分と変遷のある部分が存することが認められる。

イ 一貫性のある部分

〈1〉 Aを殺害したのは自分である。現場には独りで侵入し、同人と格闘となった末、本件けん銃で射殺した。

〈2〉 現場へ赴いた理由は、当時、Bを恨んでおり、同人に謝罪させたかったからである。

それは、自分達が三月一〇日夜、同人の車を持帰った折、同人が、丙興業側に対し、返還を求めながら、他方で警察署に盗難届を出すという汚いやり方をし、自分達が捜査官の取調べを受けることになったうえ、同人が、その後も丙興業側に強硬に謝罪を求めたからであり、また、自分がこの件で丙ら幹部から厳しく叱責されたからでもある。

そこで、Bに会い、この恨みを晴らそうと考え、また、そのことにより、丙らに認められたいとも思った。

現場へ赴く前、Bを何処かに呼び出そうとして何度もその事務所へ架電したが、遂に連絡を取ることができなかった。

〈3〉 現場へは被告人乙が運転する車で赴いた。

〈4〉 しかし、Bが不在で、応対に出たAと争い、格闘となるうち、激昴し、携帯していた本件けん銃を使うこととなった。

〈5〉 丙興業事務所には、三月初めころIから遊び行ってみないかと勧められ、確たる目的もなく赴き、滞在していた。自分はDの若衆ではなく、組員でない。昭和六〇年一〇月ころ浦和に移った後、仕事をせずパチンコをして遊んでいた。Iとは、同年一一月か、一二月ころ偶々北浦和の街中で知り合った。右事務所に赴く前には、三月一〇日に同事務所が銃撃された事件は知らなかったし、その後の三月一五日ころに同事務所がB総業側から額を突き返された事件も知らない。

〈6〉 本件けん銃と事件当時装填していた実弾二個は、以前に斉藤という男から買い受け、これを自己所有の、白とあずき色縞模様の枕カバーの中に入れ、浦和市内の自らのアパートに保管していた。

〈7〉 それを車の事件後の三月一四日に日帰りして持ち帰り、丙興業事務所内に隠していた。

〈8〉 犯行後、上山田町からは独りで逃げ、国道に出て、信号待ちしていたトラックの荷台にもぐり込み、都内高島平まで赴いた。

〈9〉 その途中、乗車約五〇分後に当時着ていた上衣を投げ捨てた。

〈10〉 その後、都内上野の映画館前で乙と落ち合い、一緒に自首した。

〈11〉 逃亡後、自首するまでにその他のD睦会の関係者に会ったことも事務所に立寄ったこともない。

ロ 変遷のある部分

〈1〉 現場では、ドアをドン、ドンと叩き、「開けろ。」と怒鳴った。

〈1〉’ 右ドアは、トン、トンと静かにノックし、「すいません。」、「誰か代表の方はいませんか。」と声をかけた。

〈2〉 Aを撃つ時は、一歩下がって、中腰より低くして股を広げ、右手を真直ぐに伸ばし、けん銃をほぼ水平に相手の喉のあたりに向けて引金を引いた。

〈2〉’ その際、トイレでしゃがむような姿勢で、銃口をAの喉に向けたり、顔に向けたりした後、その顔面に突き出しざま引金を引いた。

〈3〉 本件けん銃は六連発式のものである。

〈3〉’ 五連発式のものである。

〈4〉 現場の○○アパートへは、被告人乙と二人だけで直行して赴き、犯行直後、同所前から同被告人を返し、自分はそのまま逃走した。

〈4〉’ 現場へは、被告人乙のほか、丙、丁も同行し、丙興業を出て、先ず、Bの住む「××マンション」へ赴き、前記のとおりの大騒ぎとなり、自分もドアを叩き、その後、丙の指示に従い、○○アパートに赴き、犯行後は、右三名と一緒に車で事務所に戻った後、気付かれないようにして独り抜け出して逃走した。

自分が、その前夜からBを謝罪させるべく連絡を取ろうとしていたことは誰も知らない。

当日、四人で出掛ける前に丙と丁が大騒ぎをした事実は知らない。

現場アパート前では、丙の指示で、自分独りが下車してB総業事務所へ赴いた。

以上の事実が認められる。

(2) 被告人乙の供述

被告人乙の捜査段階における供述については、検察官が、弁護人からの同被告人の司法警察員に対する供述調書の開示の申し出に応じないため、その全容は明らかとならないものの、右(1)に認定の事実に〈証拠〉によると、少なくとも、骨子以下のとおりの一貫性のある部分と変遷のある部分の存することが認められる。

イ 一貫性のある部分

自分は、本件事件当時、車で被告人甲に同道して○○アパートへ赴いた。

ロ 変遷のある部分

〈1〉 現場の○○アパートへは、自分が車を運転して直行し、被告人甲と二人だけで赴き、自分は、同被告人を降ろすと直ちに引き返した。

〈1〉’ 現場へは、被告人甲のほか、丙と丁も同行した。

その前夜、丙興業事務所では、当初、被告人甲がBを呼び出して殺し、自分もその場に赴いて様子を見守ることになり、同被告人が、Bとの連絡を取ろうとしたが適わず、右計画が中止された。しかし、丙と丁が、当日午前二時ころ、事務所に戻ると、それぞれ、Bを「俺が殺る。」、「それなら俺が行くから。」などと言い争いになり、結局四人で出掛けることになった。四人は、事務所を発つと、先ず「××マンション」に赴き、前記のような大騒ぎをした後、○○アパートへ赴いた。到着すると三人が降り、自分は、被告人甲から、「ドアを開けて待っていろ。」と言われたので車の付近に留り、見張りをしていた。一〇分位経つと、「パン」というような音が聞こえた。その直後、三人が戻り、四人で事務所に戻った。この間、被告人甲が車を運転した。

〈2〉 D睦会とのつき合いは、Iを通してのみであり、同人とは偶々、街中のパチンコ店で知り合ったものである。

〈2〉’ 自分は丁の舎弟であり、同人から命じられて丙興業事務所に赴き滞在することになった。

〈3〉 事件発生後、被告人甲と都内上野の映画館前で落ち合い、一緒に自首した。

〈3〉’ 事件発生後、二一日午前四時四五分ころ、丁からの電話で指示を受け、午前五時ころ、Nら三名と共に事務所を車で出発し、夕方川口市の自宅に帰った。すると、すでに丁から連絡がきており、その指示に従い、同人や被告人甲、Dらと落ち合い、翌朝、D睦会事務所に立寄り、Dらから、種々の指示を受けた後、見送られて自首した。

以上の事実が認められる。

(3) 被告人両名の各供述の特異性

すでに認定の各事実に〈証拠〉によると、被告人両名の捜査段階における供述には、以下のような特異性が認められる。

イ 被告人両名は、共に本件の犯人として自首しながら、いずれも、当初から、多くの重要な虚偽、虚構の供述をしている。すなわち、

〈1〉 いずれも、現場へは、被告人両名が前記3の、丙、丁と赴いたこと及びその前に、四名が、Bの住む××マンションに立寄り、丙、丁が喧嘩腰でBらを呼び出そうとしたことを隠し、(1)のロの〈4〉及び(2)のロの〈1〉のとおり、被告人両名だけで、現場へ直行した旨の虚偽の供述をしている。

〈2〉 いずれも、D睦会への入会や丙興業事務所へ赴くに至った前記1、2の真実の経過を隠し、右経過について、(1)のイの〈5〉、(2)のロの〈2〉のとおり、偶々知り合ったIから勧められてこれに従った旨の虚構の供述をし、被告人甲は、前記2のとおり、丙興業事務所が三月一〇日に銃撃された事件を知り、Hからの命を受けて同事務所に赴き、その後同月一五日に起きた前記2のB総業側からのスナック「林肯(リンカーン)」の突き返し事件を明らかに知り乍ら、(1)のイの〈5〉のとおり、そのいずれの事件も知らない旨の虚偽の供述をしている。

〈3〉 被告人甲は、A殺害に使われた本件けん銃の出所について、前記2、3のとおり、自らが丙興業事務所に赴いて以来、本件事件が発生するまでの間に上山田町を離れたことがなかったにも拘わらず、(1)のイの〈7〉のとおり、三月一四日に自宅に戻り、本件けん銃を持ち帰った旨の虚構の供述をしている。

〈4〉 被告人甲は、前記5の、事件後、丙、丁らと共に上京し、Dらと会い、D睦会事務所に立寄った後に自首した経過を全て隠し、(1)のイの〈8〉、〈10〉、〈11〉のとおり、独り、トラックの荷台にもぐり込んで逃走し、被告人乙と都内上野で落ち合った旨の虚構の供述をし、被告人乙も前記5の上京及び被告人甲と落ち合うまでの真実の経過を隠し、(2)のロの〈3〉のとおり、被告人甲の右供述に符合するやはり虚構の供述をしている。

ロ 被告人甲は、虚偽、虚構の供述を頑なに維持しようとしている。すなわち、

〈1〉 同被告人は、丙、丁に本件事件の被疑者として逮捕状が出されたことを知り、初めて(1)のロの〈4〉’のように、現場に四人で赴いたことを認めるに至ったものの、なお、丙、丁とのかかわりを極力避け、〈ア〉その前夜、自分がBに会おうとしていたことは誰も知らない、〈イ〉出掛ける直前の丙と丁の騒ぎは知らない、〈ウ〉○○アパート前では、自分独りが下車して現場に赴いた、〈エ〉事務所に帰った後は、独りで逃走し、前記のようにして被告人乙と落ち合い、自首した旨の虚偽、虚構の供述を続けている。

〈2〉 しかも、被告人甲は、右〈1〉の〈ア〉ないし〈エ〉の各点について、担当検事から、被告人乙がすでに前記認定の事実を述べている旨を告げられたうえでその真相を質されながら、なお、自らの右〈1〉の供述内容が正しいとしてこれを維持している。

ハ 被告人両名の供述の変遷には、犯人のそれとして不可解な点が存する。すなわち、

〈1〉 被告人乙は、本件の主犯としての被告人甲のために運転した幇助者として自首し、当初は、(2)のロの〈1〉のとおり、現場で同被告人を降ろし、自らは直ちに引き返したと述べながら、その後、同〈1〉’のように、右供述を翻し、運転をしたのは被告人甲であると述べ、しかも、右の運転に代えて、自らが現場で同被告人のために見張りをつとめて幇助した旨供述し、あくまで、本件について、同被告人に次ぐ犯人になろうとした。

一方、被告人甲は、担当検事から右の被告人乙の変遷後の供述内容を告げられて質されながらも、なお、(1)のイの〈3〉の当時運転したのは被告人乙であるとの供述を変えようとしないし、(1)のロの〈4〉’の自分独りが下車したもので、被告人甲、丙、丁の三人が下車した旨の乙の供述は嘘であるとまで供述した。

〈2〉 被告人甲は、自ら本件けん銃でAを殺害したとしながら、肝心の本件けん銃について、(1)のロの〈2〉のように型式を間違えて六連発のものと述べ、現場での行動についても、(1)のロの〈1〉、〈1〉’のとおり、当初は、玄関戸を「ドン、ドン」と激しく叩いて怒鳴った旨の供述をし、その後、これを「トン、トン」と軽く叩いて静かに呼び掛けた旨供述内容を大きく変更したが、その理由を質されても「別に何ということはありません」と何ら合理的説明ができないでいる。また、Aを射撃した際の自らの構えについて、(1)のロの〈3〉、〈3〉’のように、当初は、中腰であったと述べ、その後、クラウチングスタート時のようにしゃがんだ姿勢であったとその供述を変えた。

そして、右事実によると、被告人両名が自首した当初から、多くの重要な点について、いずれも、自分自身のためには全く意味のない虚偽、虚構の供述を敢えてしつつ、本件を両名のみの犯行であることを強調し、丙、丁とのかかわりやD睦会との関連を隠そうとつとめていたこと、被告人乙は、その後、遅くとも、検察官から取り調べを受けた時点では、多くの点で右供述を改め、概ね前記認定の客観的事実を認めるに至ったこと、しかし、被告人甲は、その後も頑なに当初の供述を維持しようとつとめ続けたことがそれぞれ認められる。

(四) 丙、丁らのその後の行動

〈証拠〉によると、以下の事実が認められる。

丙と丁は、いずれも、前記のとおり、本件事件の翌日早朝に被告人両名と別れた後は、B総業側からの報復を恐れ、また、捜査官の目を逃れて潜伏し、本件抗争が一応終結した後の同年九月、それぞれ、上山田町の自宅と丙興業事務所で本件の共犯容疑で逮捕され、引続き勾留もされたが、結局、処分保留のまま、釈放され、現在に至っていること、両名が、その折、捜査官に対してどのような供述をしたかは、検察官が弁護人からの証拠開示の申し出に応じないため知る由もないが、少なくとも、丙は、その取調べを受けた際、本件事件直後に独りトラックに便乗して逃亡した旨の虚構の供述をしたこと、Jは、前記5の(二)のとおり、本件事件の約半月後の四月三日に逮捕され、服役することとなったが、その際、捜査官に対し、本件事件後に前記のとおり被告人甲らと同道して上京した事実がない旨、また自己の刑事裁判では、自分は丙の組員でない旨のやはり虚偽の供述をしたこと、以上の事実が認められ、これに反する証拠はない。

なお、検察官は、右証拠開示の申し出に対する意見の中で、本件A殺害事件に関する丙と丁に対する最終処分が未だなされていない旨述べている。

二  公判開始後の被告人両名及び関係者の供述

1  被告人両名

(一) 被告人甲は、昭和六一年六月二七日に行われた第一回公判では自らに対する公訴事実を認めたが、第二回公判が予定された同年八月二二日を前にした同月一二日、担当検察官宛の上申書を作成し、そのころ、これを同検察官に提出し、その中で、従前の供述を翻し、Aを殺害したのは当時同行していた丁であり、自らは、同人から頼まれて自首した身代り犯人である旨を詳細かつ具体的に記して訴える一方、同月一六日、当裁判所に対し、自らの委任弁護人の解任通知と国選弁護人選任申立を行うに至った。

そして、同被告人は、その後行われた第二回公判以降、一貫して、右上申書に記したと同様、自らに対する公訴事実を否認し、真犯人が丁である旨主張し続けた。

(二) 被告人乙は、前記のとおり、第一回公判では、自らに対する公訴事実についての意見陳述を留保し、第二回公判において、右公訴事実を否認し、自らは、当時、被告人甲と共に○○アパート前に赴き、車付近に立っていたものの、同被告人の意図や現場のB総業事務所内での出来事は全く知らなかった旨主張したが、その後、昭和六二年六月二二日に行われた第一〇回公判に至り、改めて公訴事実に対する意見陳述を求め、一応、これを認め、当時、被告人甲がBを殺害するものと認識しつつ同被告人のために見張りをつとめていた旨陳述した。

しかし、同被告人の右陳述は、必ずしも明確でなく、現場における被告人甲らの行動に対する認識と見張り役としての自らの行動について、その供述が曖昧で、変遷を重ねつつ結審を迎えた。

2  関係者の供述

本件事件発生当時被告人両名に同行していた丙及び丁は、いずれも証人として、右同行の事実及びその後の前記認定事実を認めながらも、本件現場のB総業事務所内に入ったのは被告人甲独りであり、自らはBと面談すべく、同被告人を遣わせ、階下で待機していたにすぎず、その後、福生市のマンションに至り、同人から、右事務所内でその関係者を射殺した旨を聞き、初めて事件発生を知るに至った旨供述し、被告人乙及び証人として出頭した前記D睦会の関係者もその前後の経過について、概ね右証言に副って供述した。

三  被告人両名及び関係者の供述の信憑性

1  被告人両名について

(一) 被告人甲の捜査段階における供述は、同被告人が、前記のとおり、自らがAを射殺した者として本件けん銃を持参して自首し、捜査段階において一貫して右殺害の事実を認めながら、他方において、明らかに意図的と思われる虚偽、虚構の事実を述べ、そのうえ、肝心の犯行の動機及び犯行状況についての供述内容に多分に不自然かつ曖昧な点が存し、全体として、これをそのまま措信することは到底できないものである。

これに対し、同被告人の作成した前記上申書の記述と同被告人の当公判廷における供述は、全体として、前記一に認定の動かし難い事実に符合し、経験則に照らして、自然で矛盾するところがなく、その内容が、詳細かつ具体的であり、また、通常その経験者でなければ語りえない心情の吐露を伴う迫真性があり、かつ、重大な秘密の暴露を多数含むものであり、しかも、本件審理が長期に及んだにも拘らず、その供述内容が右上申書の記述と細部に亘って一致するばかりでなく、その表現において酷似し、かつ、一貫し、全体として、これに高い信憑性を認めうるものである。

(二) 被告人乙は、前記のとおり、被告人甲と共に、その犯行を幇助した者として自首したものの、捜査段階において、当初は、自らが同被告人のために運転をつとめたと述べながら、その後、同供述を翻し、これに代えるように、見張りをつとめた旨述べるに至った。

同被告人は、遅くとも、検察官の取調べを受けた段階では、それまでの明らかな偽りの供述を改め、公判廷でも、概ねこれに副うべく供述するものの、前記のとおり、公判開始後はの同被告人の供述は、目まぐるしく変転するうえ、肝心な点で曖昧な表現が目立ち、このことは、本件の一連の経過の中での同被告人の事実認識自体の曖昧性を窺わせなくもないが、同被告人が組関係者の指示により車を運転した者として自首してきた経過や捜査段階でいち早くB殺害計画を自供してしまった経緯、同被告人の公判廷での供述態度や供述内容に鑑みると、自ら経験した真実をありのままに語り得ない立場、状況にあったものと理解するのが相当であり、結局、同被告人の検察官に対する供述及び公判廷における供述は、一貫性と具体性の認められる部分については、その前後の事実経過に符号する限りにおいてこれを措信しうるものの、その余については、拠り所を欠くものとして信憑性の乏しいものと考えざるをえない。

2  関係者について

(一) 丙及び丁の各証言は、いずれも前記一に認定の動かし難い事実に照らすと、その内容に矛盾し、或いは不自然な点が多く、また、その供述に抽象的又は曖昧な表現或いは逃避的態度が目立ち、それが、自ら又はD睦会の者の利害に直接関係する部分において顕著であり、殊に、丁は、自らが本件に関係する被疑者として取調べを受けた際、○○アパートから戻った後の、同人の表現をかりると、「逃亡ルート」について、独りトラックで逃げた旨の虚構の事実を述べておりまた、弁護人の尋問に対し徒らな反撥を示していることなど考え併わせると、全体としては、被告人甲に較べると、信憑性に乏しい部分を少なからず包含し、これをそのまま措信することは到底できないものといわなければならない。

(二) その余の関係者の各証言については、いずれも、本件事件の発生当時、丙興業事務所を離れていた者であり、当然のことながら、その当時の事実については、これを直接知る筈もなく、概ねこれを丙、丁から聞き知ったに過ぎないところ、自らが直接知りえた事実についても、それが、自ら又は丙、丁を含むD睦会の利害に関係する部分に関する限り、右丙及び丁の各証言と同じ特徴が認められ、同様にいずれもこれをそのまま措信することができない。

そして、以上に述べた被告人両名及び関係者の各供述の信憑性については、次項以下の補足認定と検察官の主張に対する判断において、具体的に触れることとする。

四  事実関係の補足

すでに第三の検察官の主張の項で述べたように、被告人甲がAを殺害したとする検察官の主張は、その犯行の動機、犯行に至る経過、犯行状況についての具体的主張に欠けるところが多く、全体として不明確であるところ、被告人両名と関係者の供述が前記二のとおり、重要な点で全般にわたって対立している。

そこで、前記一に認定の動かし難い事実関係を前提として、更に本件事件前後の経過で重要な事実関係について補足検討を加えたうえで検察官の主張に対する判断を行うこととする。

1  事件発生当時の丙興業とB総業の関係

前記一の2に認定した事件の背景、一連の経過によると、本件事件が発生した当時、丙興業とB総業との対立は相当に硬化し、抗争化しつつあり、いわば一触即発の状況にあったものと認めるのが相当である。

そして、このことは、前記一の3の事件発生に至る経過、すなわち、丙と丁は、事件発生の当夜、少なくとも被告人甲がBの命(タマ)を狙うことを知りつつも、これを了解して止めず、丙は、被告人丁に対し、被告人甲に同道することを命じたこと及び丙と丁が、深夜、本件現場に赴く前に、被告人両名を連れて突然にBらの住居に押しかけ、相手側からは、即座に丙側からの襲撃と判断されるような前記の粗暴な振舞いに及んだ事実並びに前記一の5の(二)のその後の抗争経過、すなわち、本件事件後、B総業側と丙興業側との間に相手方からの報復と認識される殺傷事件が相次ぎ、D睦会では二〇〇名余りの者を上山田町に集結させて抗争体制を備えたことなどによってもこれが裏付けられるものである。

〈証拠〉は、当時、丙興業がなお、B総業側との問題の解決を専ら話し合いに求めていた旨や丙と丁らが被告人らを伴って××マンションに赴いたのも話し合いのためであった旨を供述するが、これらの供述は、右のその前後の経緯及び〈証拠〉に照らし、到底これを措信し難く、他に右の認定を左右しうべき証拠はない。

2  B殺害の企て

(1) 前記一の3で認定したとおり、事件発生の前日の三月二〇日午後、丙興業事務所では、幹部のD、丁、丙、Iが二階で会談し、D、I、Eが、その夕方戸田市に引揚げて行き、その後間もないころ、同事務所では、被告人甲が、Bを呼び出して殺害することとなっており、丙、丁は、少なくとも、そのことを了知しながらこれを止めようとはせず、しかも、同被告人にその理由や殺害の手段、方法も質さず、被告人乙に対し、被告人甲に同道することを命じていた。

ところで、このように被告人甲がBを襲撃することとなった経過に関し、同被告人は、捜査段階においては、その動機について、前記一の5の(三)の(1)のイの〈2〉の、同被告人が、その数刻後に丙、丁らと共に××マンションに赴くこととなったと全く同じ動機、すなわち、同被告人らが三月一〇日にBの車を持ち帰った事件で同人が汚いやり方をしたり、丙興業に強硬に謝罪を求めたりし、丙ら幹部からは厳しく叱責されたことから、当時、Bを恨んでおり、同人に会って謝罪させ、或いは同人を殺害して自らの恨みを晴らし、更には丙ら幹部にも自分を認めてもらいたかったからである旨供述し、この目的を果たすため、同〈6〉、〈7〉のとおり、三月一四日に日帰りで浦和市の自宅とを往復し、以前から所有していた本件けん銃を持ち帰り、当日、これを使用しようとしていた旨供述する。

しかしながら、前記一の2のとおり、被告人甲は、三月一〇日に丙興業事務所に赴いて以後、同所にそのまま滞在し続けており、右の三月一四日に帰宅した旨の供述内容は、明らかに虚構のものであり、また、右供述は、前記のとおり、丙や丁が右の同被告人の企てを知らなかった旨の両名を庇う虚偽の供述を伴うものであって、甚だ信憑性の乏しいものであるところ、同被告人は、公判開始後、右の供述を全面的に変え、先ず、検察官に提出した前記上申書において、右のB殺害計画は、当日、Dらが丙興業事務所を引き揚げる前にD、丙、丁、Iら幹部によって決められたものであり、自分は、Iからそのことを告げられるとともに、その実行を命ぜられ、本件けん銃を渡され、同人らが出発した後、丙からもBとの連絡を取るよう命ぜられた旨及び自分が丙からBの車の件で叱責されたり、Bに恨みを抱いたりしたことはない旨を訴え、その後、公判廷においても同趣旨の供述を重ねるに至った。

これに対し、証人丙は、要旨以下のとおり供述する。

当時、B総業側と抗争を起こしたくないと考えていたし、Dからも事を荒立てないよう戒められていたので、三月一〇日にBの車の事件が起きると、腹が立ち、警察署から戻った後、被告人甲を怒鳴りつけて叱責した。三月二〇日夕刻、Dらが引揚げた後、被告人甲がBを殺ると言い出した。自分はどうせやれないだろうと思って放置していた。したがって、その方法などを質すこともしなかった。

そして、右丙証言に副い、証人Dも、Bの車の件では丙を厳しく叱責し、三月二〇日深夜、丙から、電話で、同被告人がBを殺ると言い出している旨の連絡を受けたので、丙を再び厳しく叱責し、直ちに中止させるよう命じた旨供述し、証人丁も、三月二〇日夕刻、丙から、被告人甲がBを殺すと意気込んでいると聞かされ、同被告人の思いどおりにさせるよう受け流し、同被告人がBらと乱闘となった場合に備え、被告人乙を同行させることにし、その旨同被告人に命じたが、被告人甲には右殺害方法などを具体的に質すことはしなかった旨供述し、更に、証人丁も、被告人甲がそのころ、「近々殺ってやろうと思う。」ともらしていた旨供述する。

また、右証人D、丙、丁及び証人Iは、いずれも、被告人甲が供述するようなB殺害を計画した事実はなく、当時、D睦会は、B総業側とはあくまで話し合いで解決する方針で対処していた旨供述し、証人Iは、同日被告人甲にけん銃を渡したりB殺害を命じたりしたことはない旨供述する。

(二) ところで、被告人甲が自らB殺害を企てた旨の同被告人の捜査段階における前記供述及びこれに副う証人丙、丁、Dらの前記各供述は、到底これを措信しえない。その理由は、以下のとおりである。

(1) 当時の被告人甲には、そのような企てをすべき動機を認めることはできない。

被告人甲は、右動機として、前記のとおり、捜査段階において、三月一〇日のBの車の持ち帰り事件で、同人の仕打ちと丙に叱責されたことからBを恨んだ旨供述し、右各証人もこれに副う供述をする。

しかしながら、前記一の2の事件の背景のとおり、右事件では、Bが間もなく被害届を取り下げ、また、同人は、丙興業側に謝罪を求めたものの、丙興業側は、当時、相手と敵対し、殊に、当日朝の銃撃事件で硬化しており、右要求についてはこれを無視し続け、しかも、数日後、事件は曖昧な状態となったまま終ったものであり、一方、丙興業の内部にとってみれば、右の事件は、被告人甲らが、応援のため丙興業事務所に到着して間もなく、その代行のEの案内で街中に出た際に起こり、しかも、同人自身がその契機を作り、かつ、指示して行ったものであり、その責任は、その経過からも、立場からも、当然同人に帰せられるべきものであり、丙が、わざわざ自らの応援のため遠来したばかりの、しかも、いわば末端組員である被告人甲をそのように叱責する事態は到底想像し難いところである。

そして、このことと、被告人甲がその後××マンションで示した前記一の3の消極的態度やB殺害の企てに関する同被告人の公判開始後の前記上申書の記述や公判廷における後記のような信憑性の高い供述に照らすと、右に摘示したB殺害の動機に関する右の被告人甲の捜査段階における供述及び各証人の供述はいずれも措信しえないものといわなければならない。

被告人甲は、また、捜査段階において、Bを殺害して丙らに認められたかった旨供述し、証人丁も前記のとおり、これに副う供述をする。

しかしながら、右各供述も、前記一の1の被告人甲がD睦会に入った経過とその後組員として活動していなかったこと及び同被告人が××マンションで示した消極的態度、並びに同被告人の公判開始後の右の各供述に照らすと、いずれもこれを措信しえない。

そして、他に、被告人甲に自らB殺害を企てるような然るべき動機の存したことを認めうる証拠はない。

(2) 当時の被告人甲は、そのような企てを自らしうる立場にいなかった。

前記一の1、2のとおり、被告人甲は、当時D睦会に入って間もない、いわば末端組員であり、丙興業事務所においては、いわば新参者にすぎなかった者である。

ところで、1に述べたとおり、丙興業とB総業との間は、当時、対立が抗争化しつつあり、いわば一触即発の状況にあったものである。このような状況下で、丙興業側の者がBを殺害に及ぶことは、直ちにB総業及びその上部組織の近松組との本格的抗争を覚悟しなければならないことである。そのような、丙興業にとっての重大事を右のような立場の被告人甲単独で企てうるものでないことは明らかである。

しかるところ、本件事件前夜、丙興業事務所では、Dらが引き揚げて間もなく、被告人甲がBを殺害することとなり、丙、丁がこれを了知しながら止めようとせず、また、敢えて同被告人に具体的手段や方法も質さず、被告人乙に同行を命じたことは前記のとおりであり、このことは、Dらが発った当時、すでに丙興業ないしD睦会としてそのような企てが決定されており、丙及び丁も当然その内容を知っていたことを推測させるものといわなければならない。

(3) 被告人甲自らが当時、B殺害の手段を備えていた形跡がない。

前記一の3、4に認定の事実によると、丙興業事務所には、遅くとも、被告人甲がBを殺害することとなった当時、すでに本件けん銃が存在し、これがそのまま、A殺害に使われるに至ったものと認めるのが相当である。

ところで、同被告人が捜査段階で、本件けん銃を三月一四日自宅から持ち帰った旨供述をするが、それが虚構のものであることはすでに述べたとおりである。

そして、右のようにB殺害を自ら企てるべき動機も立場も認め難い被告人甲が、自ら本件けん銃を準備したような事実を窺わせるべき資料もない。

同被告人が、前記のとおり、捜査官の許に本件けん銃を持参して自首したものの、その後、捜査官に対しその型式(発弾数)を間違えて供述したことは、これが自らのものでないことを窺わせるものである。

(三) しかるところ、被告人甲は、前記上申書において、三月二〇日午後から夕刻にかけて丙興業事務所で、D睦会の幹部によってB殺害計画が立てられ、同被告人が、Iから本件けん銃を渡され、その実行を命ぜられた旨を詳細かつ具体的に訴え、当公判廷においてもこれに副った供述をする。

同被告人が上申書で訴えた内容は以下のとおりである。

丙興業事務所では、三月二〇日昼ころから午後三時ころまでの間、D、丙、丁、Iの四人が二階に集まり、会談していた。その後、D、丙、丁は外出すると、自分は、Iから二階に呼ばれた。すると、同人は、じゅうたんの下からタオルに包んだ三八口径、五蓮根(連発)回転式けん銃一丁を取り出して見せながら、「今日、Bを殺るから、悪いけど、今回は甲にやってもらう。」と言い出した。自分は、一応断って理由を尋ねた。「自分でなきゃ駄目なんですか?」と尋ねて、更に、「もう決まったことなんですか。」と尋ねた。Iからは、「駄目だ。」、「もう決まったことだ。」と言われた。このように、あんまりあっさりした断り方をされたことと、もうさんざん二階で組長達が話し合っていたので、その結果出た答だと思った。そのため、それ以上断わることができなかった。Iは、けん銃を持ち乍ら、「ええー、このけん銃は、S・Wスミスアンドウェッソン三八口径のスペシャル……チーフスペシャン回転弾倉式のリヴォルヴァー、五連発式で、安全装置は付いて無い……。」と説明を始めた。弾丸は、五個すでに装填されていた。自分は、この時、頭の中が「ガーン」ときて、ぼけっとしていたのかもしれない。Iは、「おい、ちゃんと憶えとけよっ。」と注意を促した。そして、「Bはなかなか会えないし、出て来ない。そこで、今日電話で呼び出して殺れ。……甲の好きな所、うまく考えて呼び出せよ。それじゃなかったら向うに指定させてもいいし、そりゃお前の自由だよ。でも、もしもこっちから指定するんだったら、……スナックとか飲み屋でいいじゃん。……。」などと殺害方法を詳しく説明し、「至近距離で一発で決めろ。」、「そうすりゃ即死か悪くても重態だ。」としきりに「至近距離」を繰り返して強調した。そして、「殺ったら、自分の好きな所逃げればいい。」、「埼玉向ってもいいし、でも多分緊配(緊急配備)張られるだろう。」、「そしたら、上田あたりのホテルにでも入って、一週間でも二週間でも……じっとしてるしか無いだろう。」などと続け、「今回は一人で行ってもらう。」と結んだ。自分は、驚ろいて、「ええっ、一人なんですかあ。」、「頭、運転手だけでも、一人付けて下さいよ。」と頼んだ。そのころ、事務所に戻ったDから風呂に行くよう声をかけられ、Iと中原の三人で出掛けた。自分は、風呂でもIに対し、右の運転手の件で「願います。頼みますよお」と重ねて頼んだ。すると、Iは、「考えてみる。解った。」、「もしも付けるんだったら、その時は後で言う。」と答えた。自分は、「今は駄目なんですか。」と尋ねると、Iは、「もし、付けるとしても、土壇場までお互い知らねえ方がいいだろう。」と答えていた。事務所に戻り、しばらくしてから、Iに再び二階に呼ばれ、先刻示されたタオルに包まれたけん銃を渡された。

この間、自分達が風呂から帰った後、丙は、自分とE、中原のいる所に来て、「これからの電話は全て甲一人で取る。他の者は取るな。他の者はあっち行ってろ。」と指示した。そして、D、I、Eが出発した後、丙、丁は、喫茶店に出かけ、二、三〇分すると、電話があり、同人からBへ架電したか質され、「はい。でも居なくて。」と答えると、「バンバンしろ。」と言われた。その後も一、二回電話があり、丙からは、「俺の方からも連絡して取ってみるから、そっちからもしろ。」と言われた。その後も、両名とは連絡を取り合い、両名からは、Bと連絡を取るよう重ねて促されていたが、結局、連絡が取れず、やがて被告人乙が丁に呼ばれて同人らの許に赴き、最後は、丙から、電話で「今日はもういいよ。」と言われ、「道具は?」と尋ねられ、「はい、紙袋に入れてあります。」と答えると、「抱いて寝ろ。」と言われ、これに従った。

被告人甲は、担当検察官に対し、以上のとおり訴え、公判廷においても、右の訴えに副い、弁護人と検察官から問われるままに、詳細かつ、具体的に供述し、更に、次のとおり供述する。

Iの態度は、最初から聞く耳を持たないという感じだった。自分がどう質問しようが、ことが済んでいるという感じだった。また、Iは、自分の返事がどうであれ、計画を明かしたからには絶対にやらせるつもりでいたのだと思う。Iは、けん銃を出して、弾倉を開いて、「お前、先ず、このけん銃を覚えておけ。」と言い、五個の弾丸が装填された弾倉を示し、「この弾を撃てばいいから。」と説明して弾倉を閉じた。

自分は、Iの命令を拒むことは到底できないと思い困惑した。Bを殺るとか、それとも壁でも弾いてこようか、空でも弾いてこようかとか、考え、迷っていた。

Iは、更に、逃走後のことについて、「どこかに逃げたら場所を言え。」、「金を持っていってやる。」と言い、更に、取調べを受けた際にも備え、けん銃の出所については、「誰か、知り合いで死んだ人間がいたら、そいつのせいにするか、解散した組織とか、ありふれた名前のやつから買ったことにしろ。」と言い、逃走経路については、「結局あわてたんで、わからない。」と、或いは、「どこを逃げたか分からない。」とするように、またどうして東京に来たかと尋ねられたら、偶々止まっていたトラックが東京ナンバーで、それがホロ車で、そのホロ車の穴から乗ったと述べるようにと細かく指示説明をした。

以上のとおり供述する。

右の被告人甲の公判開始後の各供述はその内容が詳細かつ具体的であり、同被告人が、自らにそのような動機がなく、全く考えたこともなかったが故に、突然にIからBの殺害計画を告げられ、けん銃まで手渡されて困惑する様子に臨場感と迫真性が認められ、しかも、同供述は、同被告人が、自首以後捜査官に対して述べた前記一の5の、本件けん銃の出所及び事件後の逃走方法や経路についての明らかな虚偽、虚構の供述内容とIからの指示内容が酷似していることを示すとともに、本件けん銃と窺われるべきものの出所について、新たな秘密の暴露を含んでいる点で極めて信憑性が高いものである。

そして、右の被告人甲の供述は、前記のとおり、D睦会や丙、丁との関係を隠し、これを庇おうとした被告人乙でさえ検察官に対し、すすんで述べた供述にも符合して矛盾するところがない。すなわち、同被告人は、以下のとおり供述する。

午後七時半ころ、私達のいた炬燵の部屋に丁の兄貴、丙さんの二人が入って来ました。そして、二人は立ったままの格好で、先ず丁さんが、私達全員に「今日やるからな。」、「Bを喫茶店へ呼び出して、そこを甲が狙う。」と言い出しました。私は、なるべくなら、何もなしに決まればいいなと今まで考えていたのですが、丁の兄貴の口から、いよいよ今日、B総業の組長を狙うと聞かされ、そうなれば、相手は黙っていないだろう、きっと、お互い殺し合いになるかも知れないと感じました。……Bを狙うという意味は、勿論、Bのタマを取る、つまり命を奪うという意味です。丁の兄貴は更に、「甲を先に行かせて、乙、お前とNは喫茶店の見える所で様子を見ろ。」と言いました。……丙さんは黙って兄貴に話をさせており、言葉は挟みませんでした。私は、丙さんのそういう態度を見て、Bを殺すということは丁の兄貴と丙さん、それに甲の三人で相談済みなのだと感じました。それと同時に、この話は、さっきまで事務所に滞在していたD会長、I代行も相談に乗って決めたのではないかという感じをうけました。そんな話を聞いてから、丙さん、丁の兄貴の二人は事務所から外へ出て行きました。その後甲が事務室入口脇の机に置いてあったピンク電話器を引き抜いて事務室から二階へ通じる通路付近まで運んできたのを見ました。……Bに連絡をつけるつもりだなと思いました。

被告人乙は、このように自らの気持の動きをも披瀝し、また、関係者の位置関係図までも作成するなど、右供述には具体性と臨場感が認められる。

そして、以上によると、三月二〇日午後、丙興業事務所では、被告人甲や同乙が述べるとおり、Dら幹部の四者によってB殺害計画が立てられ、これに沿い、Iが被告人甲にその実行を命じ、けん銃を渡し、丙と丁も右計画に基づいて被告人両名にそれぞれ指示を与え、自らもBを呼び出すべく前記のとおりB総業事務所に架電してBとの連絡を取ろうと努め、被告人両名は、いずれも困惑しつつ右指示に従っていたが、結局、右の被告人甲がBを射殺する企ては、同人と連絡が取れず、中止され、被告人甲は、丙からの中止命令を受け、けん銃を懐に入れたまま、事務所奥の部屋で休み始めるに至った経過が実際に存した蓋然性が相当高く認められる。

前記証人D、同丙及びIは、いずれも、右のようなD睦会の幹部によるB殺害計画やこれに基づく指示はなかった旨供述するが、その前後の経過と被告人両名の右各供述に照らすと、到底これを措信し難く、他に右認定を左右しうべき証拠はない。

3  ××マンション行きの経過

(一) 前記2のとおり、三月二〇日午後、丙興業事務所では、幹部によってB殺害計画が立てられ、被告人甲がIからけん銃を渡され、Bを呼び出して殺害することを命ぜられたが、結局、同人との連絡が取れず、丙からの中止命令を受け、けん銃を懐にして休み始めるに至った経過が存した蓋然性が相当高く認められるところ、丙と丁が、翌二一日午前二時ころ事務所に戻ると、大騒ぎをした後、被告人両名を従えて××マンションへ赴き、Bらを喧嘩腰で呼び出そうとし、被告人両名は、その様子を周辺を気にしながら見守っていたことは前記一の3のとおりである。

(二) 丙と丁の右のようなBらに対する深夜の粗暴極まる訪問の仕方は、当時の丙興業とB総業間の状況を考えると、現に在宅中のBらが即断したように、相手側からみれば、丙興業側の襲撃(殴り込み)としか受け取りようのないものであり、丙と丁側についてみるならば、右のような振舞いは、相手側から相応の反撃を受ける覚悟とそのことに対する然るべき備えなくして到底しえないものと考えるのが相当である。

そして、右の事実に〈証拠〉を併せると、以下の事実、すなわち、丙と丁は、事務所に酔って戻ると、入口事務室で、どちらがBを殺害するかをめぐって揉め始めたこと、そして、両名は、奥の部屋に居た被告人甲の許に交互に赴き、同被告人に対し、前記けん銃について、丙は、「誰にも渡すな。」と、丁は、「渡せ。」とそれぞれが相反する要求をし、同被告人は、これを丙に渡し、その後、丁がこれを丙から取り上げることとなったこと、両名は、その後も互いにBを殺害することを主張して譲らず、押問答を繰り返し、四〇分前後が経過するうち、戸田市の事務所に帰ったDから電話が入り、これに交代で出たこと、そして、それが契機となり、両名は、その直後ころ、一緒にBの許へ赴くことになったことの各事実が存した蓋然性が相当に高いものと認められる。

被告人甲の前記上申書には、けん銃を直接丁に渡した旨の記述が存するが、同部分は、右のように大騒ぎの末、けん銃が最終的に丁に渡った経過と矛盾しないものである。

また、右けん銃について、被告人乙は、捜査段階でも、公判廷でも、右四名が××マンションに出掛けることとなって以後に被告人甲がこれを携帯しているのを認めた旨供述し、証人丙と同丁は、いずれも、当時、けん銃を自ら手にしたことも見たこともなく、その存在すら知らなかった旨供述する。しかしながら、右各供述は、以下(1)ないし(3)に述べるとおり、いずれも措信し難く、他に右認定を左右しうる証拠はない。

(1) 先ず、被告人乙の右けん銃ないし本件けん銃に関する供述は、捜査段階以後、以下のとおりめまぐるしく変転し、甚だ曖昧で、結局そのいずれをも措信しうる根拠を見い出しえないものである。すなわち、同被告人は、

イ 更埴警察署に自首した際は、事件後被告人甲と都内上野で落合い、一緒に自首する途上、初めて同被告人から当日使ったという本件けん銃を見せてもらった旨供述し、

ロ その後、検察官に対し、××マンションに出発する直前、事務室の入口の辺りで被告人甲が左側内ポケット辺から回転式けん銃を引き出して見ているのを目撃した旨供述し、

ハ 第一回公判では、自らの公訴事実に対する意見陳述を留保したうえ、第二回公判においては、右事実を否認し、事件当時の被告人甲の意図は全く知らない旨供述するとともに、本件けん銃を示されると、自首するため警察署に出頭した際初めて見たもので、それまで見たことがない旨供述し、

ニ 第四回公判においても、弁護人の質問に答え、実際は被告人甲がけん銃を持っているのを見ていない旨の供述をし、

ホ 第五回公判においても、裁判所からの質問に対し、右前回と同旨の供述を繰り返し、

ヘ 第一〇回公判に至ると、弁護人の質問に答えて突如、××マンションの階段の入口で被告人甲からけん銃を預けられ、しばらくして返した旨供述し、検察官からその点を質されると、当日の経過から、被告人甲が当然けん銃を持っているんじゃないかと思っていたところ、突然これを理由なく預けられることとなった旨供述し、

ト 第一一回公判においても被告人甲の弁護人の質問に答えて右と同じ供述をし、

チ 第一二回公判に至ると、右弁護人の質問に答えて、右けん銃はを見たのは、一回目は、捜査段階で検察官に述べたとおり、出発する直前であり、二回目は××マンション前である旨供述し、

リ 更に第二七回公判に至ると、裁判所の質問に答えて、右けん銃を初めて見たのは、前日の二〇日午後九時ころ、甲がどこかへ電話している折、内ポケットに入っているのを覗き見た旨供述する。

以上のとおり、めまぐるしく変転し、止まるところがない。

(2) また、証人丙及び同丁は、いずれも当時自らけん銃を手にしたことも、見たこともない旨供述するが、前記2及び一の3のB殺害計画とその後の経過並びに前記一の5の(一)の、本件事件後に丙及び丁の両名が被告人甲と行動を共にしながら、一貫して右と同旨の供述をし、右けん銃ないし本件けん銃について余りに不自然かつ逃避的とすらいえる態度をとり続けていることを考えると、その信憑性はにわかにこれを認め難いものがある。

(3) そして、右(1)、(2)の被告人乙及び証人丙、同丁の各供述の信憑性について疑問を生じさせる各事実にそれぞれ、前記一の1の被告人甲がD睦会に入って以後の組員としての消極的姿勢、前記2のとおり、同被告人にB殺害の動機を認め難いこと、××マンションに赴く際にも自らすすんでではなく、丙の指示を受けて初めて同行したものであったこと、右けん銃は、もともと被告人甲がIから渡されて預かっていた蓋然性が強いものであるところ、前記のとおり、同被告人によるB殺害の計画はその後中止され、丙、丁が直接Bに会うこととなり、同被告人がこれを保管すべき理由がなくなったこと、そして、何よりも、もし、同被告人がけん銃をわざわざ持参するほどの積極性があったならば、折角赴いた××マンションにおいて、前記一の3のように、同被告人が示した消極的態度は、その一方で丙、丁が示した強気な態度に照らし、余りにも不自然で説明しようがないことなどを考え併わせると、右被告人乙及び証人丙、同丁の各供述は、到底これを措信し難く、他に前記認定を左右しうる証拠はない。

なお、被告人甲は、××マンションへ出発する際、丙は、軍手一双を用意し、片方を丁に渡し、両名は、各一つを右手にはめた旨供述する。

4  事件当夜の運転者

事件当夜、被告人両名及び丙、丁が乗った車の運転者について、丙興業事務所から××マンションまでの間については、被告人両名及び証人丁は、いずれも、それが被告人甲であると供述し、証人丙は、忘れた旨供述するところ、××マンションを出発してから○○アパートを経て事務所に戻るまでの間については、被告人両名は、いずれも、被告人甲であると供述するのに対し、証人丙、同丁は、いずれもそれが被告人乙であると供述して対立する。

ところで、被告人乙は、前記一の5の(一)のとおり、事件後、都内で丙らから、事件当夜の運転手として出頭することを命ぜられ、自ら、その点で事件についての罪責を負うことを覚悟して自首しながら、その後、前記一の5の(三)のとおり、早くも捜査段階において、自首した理由の運転者の立場を捨て、それが被告人甲であると供述を変えるとともに、これに代えるかの如く、自首時には、○○アパートからUターンしたと述べながら同所で見張り役をつとめた旨供述するに至っており、一方、被告人甲は、前記一の5の(三)のとおり、捜査段階においては、自らが問われるべき本件罪責の軽重に殆どかかわらない右運転者について、一貫して、それが被告人乙である旨供述し、しかも、担当検察官から、被告人乙のこれと異なる右供述内容を告げられつつ質されるに至ってもなお自らの供述を変えようとしなかったところ、公判開始後は、それまでの供述を全面的に変え、前記上申書の中で右運転者が自分自身である旨記述し、その後、公判廷でも同じ供述を繰り返すに至ったものである。

そして、右事実に被告人乙の公判廷における供述、すなわち、同被告人が、運転免許がないので、平素は輩下のNに運転をさせており、ノークラッチ装置の車は運転できるが、当夜の車はそれと異なるものであったから運転できなかった旨の供述を併わせ考えると、当夜運転をつとめたのは、被告人甲のみであり、同被告人が捜査段階で頑なにこれを被告人乙であると供述したのは、自首前に関係者で打合わせたとおり、被告人乙を運転手とする方針を貫こうとし、一方、被告人乙は、当初こそ自らが運転したと述べながら、それが偽りであり、また、自らが然るべき運転技術も有しないが故に、捜査段階で早くもその供述を改めざるをえなくなり、それでもなお、自首した本旨の、事件についての罪責を被告人甲と共に負う目的を敢えて貫ぬくべく、当初の方針を変え、被告人甲のための見張り役としての罪責を敢えて認めようとするに至ったものと認めるのが相当である。

証人丙、同丁の右運転者の認定に反する供述は、いずれも曖昧であり、その前後の経過に照らしても到底これを措信し難く、他に、右認定を左右しうる証拠はない。

5  ○○アパート前に到着後の状況

被告人ら四名が××マンションで一〇分余り過ごした後、丙の指示で、再び車に乗り、○○アパートに赴き、被告人甲がこれを運転したことはすでに述べたとおりである。

そして、一行全員が、右アパート前付近で下車し、被告人乙を除く三名が右アパートの階段方向に向かい、同被告人独りが車付近に留ったこと、同車両は右アパート前の交差点の南東角の入口よりやや南方、東側の車線上に駐車されたこと、その後、右三名が車に戻ったこと、この間、被告人乙は、車の周辺で過ごしていたことは、いずれも前記一の3に認定したとおりであり、また、その間、現場のB総業事務所内ではAが本件けん銃で射殺され、その際、被告人甲がその近くに居合わせたことは前記の一の4の認定したとおりである。

ところで、右の間の互いの行動について、証人丙、同丁は、いずれも、現場へ赴いたのは被告人甲のみである旨供述し、被告人甲も捜査段階においては、このことを認めていたのに対し、同被告人は、公判開始後、前記上申書においても公判廷においても一貫して、現場には右両名と一緒に侵入した旨供述する。そこで、同被告人の現場内の状況についての供述は後に別途検討することとし、この点を除く当時の経過と右各供述の信憑性を検討することとする。

(一) 先ず被告人乙及び証人丙、同丁は、被告人らは、○○アパート前の交差点へは東方道路から西進し、同交差点を左折して直ぐ停車し、四名がほぼ同時に下車し、同所から被告人乙を除く三名が一緒に右アパートへ向かった旨供述し、証人丙、同丁は、その後の経過を以下のように供述する。

三名は、現場事務所へ通ずる階段下付近に至ると、丙は、被告人甲に対し、Bが居たら呼んで来るよう命じた。同被告人は、これに従い、階段を昇って現場事務所の方へ赴き、丙と丁は、そのまま階段下付近に留まり、小用を足したり(両名)、タバコを吸ったり(丁)して待っていた。事務所の方からは、その後、ドアを叩く音とボソボソした話し声が聞こえた(丙)。五分から一〇分位経つと(丙)、或いは、それ程経たず、しばらくすると(丁)、「バン」または「ドン」という鈍い音(丙)、或いは「ターン」というテーブルか何かひっくり返す音(丁)がした。何かあったのかと思い、階段を中ごろまで(丙)、或いは一、二段(丁)昇りかけると、被告人甲が降りて来た。丙が同被告人に対し、何か起こったのか、Bが居たかについて尋ねると、同被告人は、「何もありません。」、「居ません。」と答えた。仕方がないので、三人一緒に車に戻った。この間、右のほかに物音や人声はしなかった。

以上のように供述する。

被告人乙は、この間の状況について、以下のように供述する。

三名がアパートに向かう際、被告人甲からは、車のドアを開けて待機するよう命ぜられた。

三名がアパートに向かい、一〇分近くが経過すると、突然「パン」という物音が聞こえた。それまでは右事務所の方から人声や物音は聞こえなかった。右物音がして間もなく三名がアパートの方から戻ってきた。この間、三名の姿は目撃しなかった。

被告人乙は、右のように供述し、なお、捜査段階においても、検察官に対し同様の供述をしている。

そして、右三名が車に戻った後、被告人ら一行が丙興業事務所に戻るまでの会話については、被告人乙及び証人丙、同丁の各供述は、証人丁が、車中で、被告人甲に丙が、声をかけたようにも思うし、自分でも「知らんぞ。」というような発言をした旨供述しているほかは、すべて、無言或いは記憶に残るような会話がされなかった旨供述している点で一致しており、同被告人の右検察官に対する供述内容も同様である。

(二) これに対し、被告人甲は、○○アパート付近に至って以後の経過を以下のとおり供述する。

右アパートへは、その前の交差点へ北方の道路から南下して至り、車を先ずアパートに近い同交差点の北西角付近の対向車線上に停車させ、丙と丁が直ぐに下車し、アパートの階段方面に走って行った。続いて被告人乙が降りようとした時、対向車が約五メートル近くまで迫って来て止ったため、進路を譲るために、やむをえず、自車を一旦後退させ、右アパートの北隣りの旅館前の空地にその後部を入れ、右対向車をやり過ごした後、前記小林方駐車場所西側の右交差点南東角付近の左車線上に移動させて停車し、下車した。したがって、自分は、現場事務所へは丙と丁らに一分位遅れて赴くこととなった。

階段を上って行くと、丙と丁は、B総業の事務所の玄関前で、ドアを叩いたり、蹴ったりしながら、「おい、こら、開けろ。」とか、「B出て来い。」などと喧嘩腰で大声を掛けていた。しかし、ドアは開けられず、中からは、「当番しかいませんので……。」とか、「いません。」という返事だけが聞こえた。自分は、その様子を二人から三、四歩離れた場所で見ていた。

二人は、このようなことを数分やっていたが、そのうち、丙は、丁に「丁ちゃん、それじゃ出ないよ。」、「ちょっと、こっちに来てくれ。」と言いながら同人を階段の降り口近くまで連れて行った。

二人は、丙が、「丁ちゃん、あれじゃ開けないよ。」などと言い、しばらく小声で話し合い、少し間を置いてから再び右玄関前に戻った。そして、丙が、今度はドアを軽く叩き、少し声を変え、小声で、「すみません、どなたかいますか。」とか「Bさんのお宅ですか。」とか、「代表の方いらっしゃいませんか。」などと大人しく呼び掛けた。丁は、その左側で、壁を背にし、ドアのノブを握っていた。

丙が、何回か声を掛けるうち、中から、「はい、ちょっと待って下さい。」と声がし、しばらくしてドアが一五センチメートル位開けられた。

すると、丁は、ノブを引き、丙は、その上に手をかけてドアをこじ開け、相次ぎ肩から室内に侵入した。

自分は、数秒ためらった後、二人に続いた。奥の六畳間に赴いたが、その間に、Aは、二人に暴行を受け、南窓を背にして座り込んでいた。

そして、丁は、AにBの居場所を質して責め続けたが、Aが応じなかったため結局本件けん銃で同人を射殺することとなった。自分としては全く意外の成り行きであった。

三人は、その後間もなく相次いで部屋を出て車に戻った。

右の現場に赴いてから戻るまでに一〇分余りが経過した。

帰りの車の中では、丙が、丁に「なんで撃っちゃったんだ。」と尋ね、丁がしばらく答えないと、続けて、「まあ、しょうがねえよな。今更言ったって時間が戻る訳じゃねえんだから。」と独り言を言い、今度は自分(被告人甲)に向かい、「おい、いいか、お前がやったんだからな。」、「お前がやったんだぞ。」、「解ったか。」と言い出した。自分は、これを聞いて頭がボーッとなった。

被告人甲は、以上のように供述し、前記上申書の記述も右供述内容に副ったもので矛盾するところがなく、なお、車中での会話部分については、“丙が「ありゃ即死だなあ……どこから撃ったの……口の中から……。」と言うと、丁は、「音……聞(こ)えたかなあ……?。」と言ってました。丙は、「聞(こ)えたよ!あれだけの音だア!」……丁……「大きかった?。」、「もう誰か言ったかなあ。」、「警察行ったかなあ……。」。すると、丙は、「オイ、いいか、お前がやったんだゾ。」、「解っているなっ。」「お前が一人でやったんだゾ……。」、「丙ちゃん、俺は何もやってないよ。」……「おお。」、「もしも丙ちゃんチクッたら、俺も言うからね。」、「おお、ワシは、言わない。」「ワシもうとうたら、うたうヨ(歌の意)。」……自分は、自分が撃ったんじゃないのに、……因(困)ってしまい、頭をうなだれて運転してました。”との記述がある。

(三) また、当時右アパートの二階に住んでいた平林久(昭和二五年生)は、捜査官に対し、事件発生前後の状況を以下のとおり供述する。

アパートの東側を南北に走る県道上を南方の上田方面から来た車が、「キキキー」と急ブレーキをかけて止まる音が聞こえた。一〇秒前後すると、階段をドンドンドンと駆け上がる(一人)の足音が聞こえた。その足音がB総業事務所の方へ移動して足まると、ドアを手でトントントンと叩く音と「何々さん、いますか。」、「いたら開けて下さいよ。」と言う男の割合通る早口の声が聞こえた。ドアを叩く音は早めで、六、七回前後だった。

その時、もう一人階段を昇って来たような気配を感じた。

その後は静まり、救急車のサイレンを聞くまで人声や物音を耳にしなかった。

右住人は、以上のとおり供述する。

(四) そこで、右各供述を検討する。

先ず、被告人乙の、被告人甲から車のドアを開け、待機するよう命じられた旨の供述は、前に認定した両名のD睦会における立場やその年齢の程及び当時、被告人乙の兄貴分の丁や同じく幹部の丙が同行していたことを考えると、甚だ信憑性の乏しいものであるところ、被告人甲は、そのような事実を否定しており、被告人乙の右供述のみをもってそのような事実を認定することはできず、他にこれを認めうる証拠はない。

次に、証人丙及び同丁の、被告人甲にBを呼んでくるよう命じ、自分達は階下で待機していた旨の供述も甚だ信憑性に乏しいものである。すなわち、

前記一の3及び前記2のとおり、丙興業事務所では、前夜、被告人甲がBを呼び出して殺害することになったものの、それが中止となったところ、当日午前二時過ぎになって、丙、丁が、共にBに会うことを主張し、大騒ぎとなった末、被告人両名を連れて出発し、××マンションでは、喧嘩腰でBを呼び出そうとし、被告人両名は、この間、受動的、消極的行動に終始していたのであって、右の経過に照らし、○○アパートに至り、丙と丁が、右のように、現場に被告人甲のみを行かせて、自らは、一〇分前後の時間を階下で大人しく待機する事態などは想像し難いところである。

この点について、証人丁は、丙に対し、「兄弟やめろよ。」、「さっきみてえなことして暴れたりすりゃ、警察に呼ばれちゃうし、兄弟が行けば、事務所だから、何人いるかわからねえし、兄弟、行かねえ方がいいよ。」と戒めた旨供述するが、証人丙は、丁から右のような忠告があったことを全く供述していないうえ、それまでに丁自身が前記のように積極的かつ粗暴な行動を示していたことを考えると、右供述もにわかにこれを措信し難いものである。

しかも、その間、両名が、どのようにして過ごしていたかについて、右両証人の供述が曖昧であるうえ、(員)の検証によると、右階段下からわずか二〇メートル前後と認められる地点に駐車された前記車両付近で待機していた被告人乙がこの間の両名を目撃しなかった旨供述していることなども考えると、右各証言の信憑性は更に乏しいものといわなければならない。

一方、被告人甲の前記上申書の記述内容と公判廷における供述は、○○アパート前に到着して以後の各人の行動が、その経過に沿って詳細かつ具体的に述べられていて、自ら体験した者でなければ語りえない迫真性が窺われるところ、同被告人が、××マンションから車を運転し、○○アパートへ赴く際に○○アパート前の交差点へ向け北方から至ったと述べる点は、〈証拠〉によると、運転者としてそのような経路を辿ることが容易に想像され、また、右アパート前路上で対向車が自車のいわば鼻先に来て止まり、やむなく後退して自車の後部を入れた場所として述べる北隣りの旅館前の空地は、右検証調書によると、旅館「若の湯」前の空地に符合することが認められるところ、更に、南方からの対向車が止ったと述べる点は、前記アパートの住人が耳にした南方から来た車の急停止音に符合し、また、そのころ、丙と丁がアパートに急ぎ赴いたと述べる点は、右住人の、急停止音が聞こえて一〇秒前後すると階段をドンドンドンと駆け上がる足音が聞こえた旨の供述に時間的に符合し、その後、丙と丁がB総業事務所の玄関ドアを叩いて声をかけたり、両名に遅れて被告人甲が現場に赴いた旨の供述も右住人の耳にした、トントントンと叩く音や「何々さんいますか。」、「いたら開けて下さい。」との人声とその時もう一人階段を昇って来た気配にそれぞれ符合しており、これらによると、被告人甲の右供述は、運転者であるが故の記憶の正確性をも含む極めて信憑性の高いものであり、同被告人が述べるような経過で丙、丁が現場に侵入した蓋然性が高いものと認められる。

同被告人は、捜査段階において、本件現場には自分独りが侵入した旨供述するが、前記一の5の(三)のとおり、右各供述は、意図的ともいえる虚偽、虚構すなわち、現場へは被告人乙と二人で赴いた旨、或いは、現場では、自らが独り下車した旨を前提とするものであって、到底措信しえないものである。

6  事件後の被告人らの上京

被告人らが丙興業の事務所に戻って間もなく、丙が丁を呼び出し、丙と丁及び被告人甲が、いずれも当時の予定を突如変更し、同様のJに車を運転させ、東京に向かうことになったこと及びその約一時間後には、丁が事務所に架電し、被告人乙らに対して、右事務所を引揚げ、居住地の埼玉県内へ帰るよう命じ、同人らがこれに従い、結局、その時点で当時、丙興業のためにその事務所に滞在していた総勢が右事務所を離れることとなったことは前記一の5の(一)に認定したとおりである。

そして、右事実に、当時の丙興業とB総業間の前記1のとおりの緊迫した状況及びその前夜からの経過を併わせると、少なくとも、被告人甲は勿論、丙と丁も、右出発当時、すでに本件事件の発生を知っていたものと推認するのが相当であり、さもなければ、事件を知らなかったはずの丙と丁に被告人甲が同行した事実は、それまでの同人らの関係を考えると、真に不自然、不可解な出来事というほかない。

右の点について、証人丙及び同丁は、いずれも、当時、事件発生を知らなかった旨供述し、証人丙は、広島県の自宅に帰ろうとしたところ、被告人甲から東京都内まで連れて行って欲しい旨頼まれて応じたところ、丁も、それなら自分もと乗り込むこととなった旨供述し、証人丁は、同被告人の様子が変だったので胸騒ぎがし、右のように自分も同行することとなった旨供述する。

しかしながら、被告人甲と丙の当時の関係を考えると、同被告人が右のように自らの都合で丙の予定を変えさせてまでその車を利用する事態などは全く想像しえないものであり、また、仮に丁が被告人甲の様子に不審を抱いたとするならば、何故にそのような重大事に繋がりかねない懸念をその場で質すことなく出発したのか、真に不自然、不可解であり、更に、その後、被告人甲に右の点を質す前に、何故に前記のとおり被告人乙に連絡し、同人らを右事務所から引き揚げさせたのか、更に疑問が生ずるところ、証人丁は、この点については、自分が被告人乙らの知らない間に出発したので、そのことを知らせると同時に、自分が右事務所を離れる以上、同被告人らが滞在を続ける必要がないのかの如き、重ねて不可解な供述をするに至っている。

なお、○○アパート前まで同行していた被告人乙は、捜査段階では、「○○アパートの外で待機中、『パーン』という乾いた感じの音が聞え、『あっ、撃ったな』と直感的に感じた。事務所に戻ってからも、B組長を殺したものと思っていた。救急車が○○アパートあたりで止まったが、ピーポ、ピーポの合図が再び鳴らなかったので、死んだと判った。」旨供述し、公判廷でも、「けん銃の音を聞いた。○○アパートから丙事務所へ向かう車中では、Bのタマを取ったと思い非常に緊張していた。救急車の音がしなくなったので、死んだなと思った。」旨供述するなど、本件発生当時から、少なくともけん銃が発射され、間もなく被害者が死亡した事実を了知していたことが認められるのであって、事務所出発当時、事件発生を知らなかったとする右丙、丁の各証言は、その内容が余りに不自然で、到底これをそのまま措信しえないものであり、むしろ、その経過をみると、被告人甲の右同行は、事件発生を知っていた丙や丁らの指示に従ったものと推認するのが相当である。

ところで、被告人甲が、少なくとも、福生市のマンションに至るまでの間に丙ないし丁に対し、A殺害の事実を認めたり、両名からその犯人として扱われた形跡が認められないことは前記一の5の(一)に述べたとおりである。

そして、被告人甲は、右上京について、以下のとおり供述する。

自分は、車の中で、丙から、「お前が犯人なんだぞ。」と言われた時から、ボーッとしていた。事務所に戻ってからもしばらく話を聞いている間、「汚ねえな。」と思った。ショッキングだった。

奥に入り、簡単に身仕度をして事務所に戻ると、丙から、「お前が犯人なんだから、これはもうお前のものだ。」、「持ってろ。」、「握れ。」と言われ、本件けん銃を渡された。この「握れ。」の言葉は、「指紋をつけろ。」という意味に受取った。

無言でこれを受け取り、再び奥に入り、けん銃の運び方を考え、押入れにあった枕カバーを見付け、これに包んで、着替えなどの荷物と一緒に紙袋に入れた。

再び事務所に戻ると、丙から、更に、「もうお前が犯人になるしかない。」、「家族に金を出してやる。」、「女にも金を渡してやる。」、「俺に怒られたからやったと言え。」、「そうじゃなかったら、お前は動機がないから、俺にグジグジ怒られたから、男を上げようと思ってやったとか、そういうことでいいじゃねえか。」などと言われた。そして、中原か誰かを使って姐さんから取り寄せた現金の中から一〇万円を裸で出した。受取りたくないので、黙っていたが、強く促されて受け取ることとなった。

丙は、また、警察での取調べの際に備えて、「暴発だと言え。」、「殺したことだけを認めて、他のことは知らないと言え。」、「やたらに作るな。作ればボロが出るから。」などと指示し、口にチャックする真似をして、「男だったら、こうやってゆけ。」、「しっちょり行け。」とも言い、更に、逮捕された後の援助についても、「面会なんかも、女も行かせるし、慰問も、毎月とまではいかないが、入れてやる。」、「俺達の方もできる限りのことはやらしてもらうから、お前も頑張れ。」、「真面目にやってりゃ、一〇年なら七年で出られる。」などとも言われた。

自分は、まだ考えはまとまらなかったが、浦和市のアパートに帰り、同棲中の女性に会ってから出頭しようと思い、丙に対し、事件当時使った車(スカイライン)を貸して欲しいと頼み、了承を得た。

そして、丙は、事務所に戻って間もなく、Jに持って来させた車に乗り、広島県に向かうことになり、丁は、被告人乙らと一緒に引揚げることとなった。

ところが、その後、丁が自分(被告人甲)と一緒に東京まで同行することを執拗に求め出し、結局、丁の考えに従い、Jの運転する車に丙のほか、丁と自分も同乗することとなり、助手席に丁が、後部の右座席に丙が、左座席に自分が座って出発した。とりあえず、東京方面に向かい、途中のインターチェンジで丙と自分が降り、トラックでもつかまえようということになっていた。

その後、四人は、一緒に東京都内まで赴くこととなり、中央高速道路に入って進行することとなった。車中、右道路に入る前に丙が自分にけん銃を出させ、拭くように命じたのでこれに従がい、枕カバーで拭いていると、丙は、自らこれを取り上げて拭き、丁も拭いていた。丁の指紋を消すためだなと思った。また、当時、けん銃には四個の実弾と空の薬きょう一個が残っていたが、丙と丁は、相談し、丁が実弾三個を抜いて車外に投げ棄てた。その後、未だ中央高速道路に入る前に、ガソリンスタンドに立寄り、丙はDに電話で連絡を取っていた。丁もどこかに電話していた。

一行は、正午前後ころ、丁の指示で、福生市内のマンションに立寄り、四〇歳位の女性の部屋に入った。

同所では約一時間過ごし、この間、丙と丁はDらと連絡を取ったが、両名からは、再び、丁の身代りとして出頭するよう説得されることになった。それは、車中でも二人から、そのことについて種々説示されたものの、自分の腹が未だ決まらず、煮え切らない態度を見せていたからだと思う。

丙は、しきりに出頭を促し、丁は、それを受けて、「大丈夫だよな。」、「甲だったら出来るよな。」などと言っていた。

返事ができずに三〇分位経ち、丙に「自分は根性もないですし、後から御迷惑かけるようなことになると申し訳ないんで、出来ないんで、勘弁して下さい。」と答えた。丁が、横から、「いや大丈夫だよ。」と言い、しばらく沈黙の時が流れた。

そして、今度は、丁から、「ちょっと来い。」と玄関脇の小さな部屋へ行くよう促された。丁は、その女性に「悪いけど、部屋を貸して下さい。」と申し向け、ベッド・ルームを使ってくれと言われると、「いやいや、そんなとこはいいよ。」、「汚しちゃ悪いから、入口にあった狭い部屋でいいよ。」と辞退した。それを聞いて、自分は、やられちゃうんじゃないかと思った。そして、自分は、もう、これ以上、後がないなと思い、丁と共にその部屋に入った。

最初、ちょっと沈黙があり、丁から、「やってくれるか。」と質され、一度は、できないと断った。しかし、丁からは、更に、「いや、大丈夫だ。」、「お前だったら出来る。」と言われ、返事の仕様がなく、ずっと黙っていた。すると、丁は、再び、「やってくれるか。」と質した。自分は、あんまり断ったら、殺されちゃうんじゃないかと思った。そして、黙ったまま首肯いた。

すると、丁はそれまでの重い雰囲気とは変り、前の部屋にいた丙に明るい声で、「丙ちゃん、やってくれるってよ。」と報告した。丙は、早速Dに電話し、何度目かの連絡を取っていた。

その後、三人共、現場から着たままでいた服を脱ぎ、その女性に焼却を頼んだが、丙は、ちょっと考えて、自分に対し、「いやお前が犯人だから、服は、持ってなきゃ変だ。」と言い、結局、自分の服だけは、持参の紙袋に入れ、二人の分は焼却されることとなった。

自分の服には、ズボンには血痕が認められたが、上衣には殆ど着いていなかった。二人の方は、いずれも胸の辺から下全体にかけて米粒三つ分位の大きさの血痕と霧吹きで付けたような小さな血痕が、大きなものは胸の辺に集中して認められた。

被告人甲は、以上のように供述し、その内容に具体性と経験者でなければ語り難いものがあり、迫真性があるところ、前記上申書の記述内容も右内容に副って矛盾するところがなく、特に、事務所に戻って以後、出発するまでの経過は、より具体的で、同被告人の心情が詳細に表現されており、その分、迫真性を一層覚えるものがあり、これによると、現実にもそのような経過があった相当高い蓋然性が認められるものである。

証人丙及び同丁は、一行が福生のマンションに立寄った理由が、運転者のJを休ませるためと被告人甲の様子が変なので、○○アパートでの出来事を質すためであった旨供述する。

しかしながら、右マンションにおいて、Jが特に休憩を取ろうとした形跡は認め難く、また、右各供述は、丙が、丁と離れた場所で被告人甲と二人になって質したところ、同被告人がA殺害を認めるに至ったというものであるが、前記のそれまでの経過に照らすと、甚だ不自然な成行きと場面であるうえ、右の二人の会話状況が曖昧であり、しかも、右各証人とも、兇器のけん銃さえ確認しなかったというものであって、右各供述には信憑性の疑われるものが多分に存する。

7  被告人両名が自首するに至るまで

被告人甲が、その後、丙、丁らと一緒にタクシーに乗り替えて都内に赴き、D、Iと落合い、神田のマンションの一室で過ごすことになったこと、Dは、すでに警察署から本件事件の発生を告げられ、その追及を受けていたこと、右マンションにおいては、被告人甲を含む右関係者の間で、同被告人が、Aを殺害した者として自首することが決められたこと、また、Dが捜査官から本件事件の関与者として少なくとも二名の者を出頭させるよう求められたことから、丁は、その夜、帰宅していた被告人乙を呼び出し、被告人甲のために運転した者として同被告人と一緒に出頭するよう命じ、被告人乙は、これを承諾し、丁に連れられ、右マンションに赴き、被告人甲らと合流したこと、被告人両名が、その翌早朝、Dらの指示を受けて戸田市内のD睦会の事務所に赴き、同所に少なくとも一時間は滞在してDやIと過ごした後、同人らをはじめ、多数の組員に送られて更埴警察署に出頭したこと、その際、被告人甲は、本件けん銃と実弾と空薬きょう各一個及び事件発生当時着用していたズボンは持参したが、上衣は持参しなかったことは、いずれも、前記一の5の(一)に認定したとおりである。

ところで、被告人両名が、その後、捜査官に対し、当初から明らかに虚偽、虚構の供述、すなわち、両名ともに、自らが丙興業に赴き滞在することになった経過を偽り、事件発生当時、丙と丁が同行していた事実等を隠し、被告人両名のみで直接○○アパートに赴き、被告人乙は直ちに引き返したと供述し、被告人甲は、本件けん銃を三月一四日に自宅から持ち帰った旨及び犯行後は独りで逃走した旨の、また、被告人両名とも、上京後、上野で落ち合って出頭した旨のそれぞれ虚構の事実を供述し、それらの虚偽、虚構の供述が、いずれも自らの罪責の軽重にかかわらない、専ら、丙、丁を庇い、或いはD睦会との繋がりを隠したものであることは、いずれも前記一の5の(三)に認定したところである。

また、被告人甲が捜査官に対して述べたA殺害の状況がそのとおりのものであるならば、当時着用していた上衣には当然、ズボンに付着した血痕よりも多くの血痕と、けん銃発射時に付着した硝煙の反応が認められるべきものであるところ、前記一の5の(一)で認定のとおり、被告人甲は、上京時通称ベトコン服上下を着用していたものであり、証人Jの供述によると、被告人甲は、福生のマンションのときはもとより、神田の若い衆のマンションをでるときも上下揃いの服装をしていたことになり、証人D、同I、同丁、同丙の各供述によると、福生のマンションを出発する時点以降、被告人甲は殺人犯人として自首することになっていたもので、常時同証人らの監視のもとにあり、被告人甲が自ら上衣を処分できる状況にはなかったことが認められ、また、被告人甲が上衣を処分した旨供述する関係者は一人もいないことからすると、同被告人が自首時にこれを敢えて持参しなかったことは、その自首目的に照らし、真に不自然な行動であったというべきである。

そして、以上の各事実及び前記6の事実に〈証拠〉を併わせると、被告人両名がそれぞれ自首以後捜査官に対して供述した前記の各虚偽、虚構の供述及びB殺害の動機に関する供述は、すべて、丙、丁、D、IらD睦会の幹部からの指示を受け、最終的には、被告人両名がD睦会の事務所に立寄った際、DとIの許でその内容が確認され、これに副ってなされたものであること、しかも、右供述内容は、被告人甲の三月一四日にけん銃を取りに自宅に帰った旨の供述部分を除くと、概ね右指示どおりになされたものであること、また、右各指示の大部分は、被告人甲が前記2のとおり、事件の前日の午後、IからB殺害を命ぜられた際に受けた指示と同じものであったこと、また、本件けん銃には、事件直後未だ四個の実弾が装填されていたところ、前記上京途上、被告人甲が供述するように、丁らが、そのうちの三個を車外に投げ捨てたこと、同被告人が事件当時着用していた前記上衣は、同被告人がD睦会の事務所に立寄った際、Dが自ら手に取って確かめ、これに血痕や硝煙の臭いが付着していないことを知ると、同被告人が犯人として自首する際に不都合なものとしてこれを廃棄させたことの各蓋然性が高く認められ、右事務所におけるその場の情景は、前記上申書の臨場感溢れる記述によって明らかである。

右認定に反する各関係証人の供述は、前記の各事実関係に照らして措信し難く、また、被告人丙は、捜査官に対し、右上衣をトラックに便乗して逃走中、自ら投棄した旨供述するが、右供述は、明らかな虚構の事実を前提とするものであって、措信するに足りないものであり、他に右認定を左右しうべき証拠はない。

五  検察官の主張に対する判断

1  論告について

本件公訴事実の骨子は、被告人甲は、現場でAをけん銃で射殺し、被告人乙は、その際、その情を知りながら、戸外の○○アパート前路上で被告人甲の右犯行のために見張りをつとめた、というものである。

そして、被告人甲が、実際に右のようにAを殺害したとすれば、通常、これを裏付ける現場状況は勿論、それなりの動機と相応の経過が認められる筈であり、また、被告人乙が、被告人甲のために見張りをつとめたとされるには、これに相当する具体的行為とその犯意、すなわち、被告人甲の右犯行を予想しつつ、これを援けようとする意思が認められなければならないところ、被告人乙が、実際にそのような意思を抱いていたとすれば、通常、右具体的行為とともに、被告人甲と同様、それなりの動機と相応の経過が認められる筈であり、そもそも、右犯意の認定は、これらの事実を総合してなされるべき性格のものである。

ところで、前記のとおり、被告人甲は、捜査段階では、公訴事実を認め、現場には独りで入り、Aを殺害した旨供述していたが、公判開始後、右殺害の事実を否認し、現場には同行していた丙と丁も一緒に入り、丁がAを殺害したと供述するに至り、被告人乙は、最終的には、公訴事実を認めるに至ったものの、その供述には変転があり、事件当時の○○アパート前における自らの見張り役としての行動と認識に関する供述が甚だ曖昧である。

そして、前記のとおり、被告人両名は、いずれも、事件の犯人として自首しながら、捜査段階では、当初から、わざわざ自らの罪責の軽重にかかわらない多くの虚偽、虚構の供述をして丙や丁を庇おうとし、被告人乙は、その後、その大部分を改めたが、被告人甲は、その後も敢えて右供述を維持しており、被告人両名の捜査段階における各供述には、その信憑性を疑わしめるものが多分に存するところ、公判開始後、被告人甲は、右の偽りを改め、本件について、全般に亘り、詳細かつ具体的に供述し、同供述には、迫真性と臨場感が認められる。

しかも、丁は被告人甲が所属するD陸会の幹部であるところ、両名の間に被告人甲が敢えて偽ってまで自らの罪責を丁に転嫁することを企てる程の特別な事情が存した形跡は全く見当らない。

しかるところ、検察官は、論告において、被告人甲については、事件直後の現場状況から再現される、Aが銃撃された瞬間の同人と犯人の体位や位置関係等が被告人甲の捜査段階での供述、同被告人が作成した犯行図、同被告人のズボンに付着した血痕等と一致、符号する旨主張するのみで、右犯行の動機、これに至る経過、けん銃の出所、現場で、同被告人がAを射殺するまでの犯行状況については自らすすんで明らかにせず、しかも、同被告人が主張するように、それまで同行していた丙や丁が現場に入った可能性、更には丁がAを射殺した可能性についても触れようとせず、被告人乙については、同被告人の、○○アパート前で見張っていた旨のいわば抽象的な供述を指摘するのみで、その具体的な行動や犯意形成の過程を明らかにしない。

しかしながら、被告人甲の公判開始後の供述内容を考えると、右のように、現場に丙や丁が入り、丁がAを射殺した可能性、その場合に被告人甲のズボンにそのような血痕が付着する可能性を検討することなしに、同被告人の全体としての信憑性の乏しい捜査段階における供述の一部のみを安易に取り出してこれを認定資料とすることには、被告人甲にかかる犯行については勿論、被告人乙にかかる犯意の程についてもその認定を誤る危険が多分に存するといわなければならない。当裁判所が、前記一ないし四において、敢えて事実関係についての詳細な認定と被告人両名及び各証人の供述の信憑性の検討を試みたゆえんである。

2  A殺害の動機について

事件発生当時の被告人甲に自らB殺害を企てる程の動機を認めえないことは前記四の2に述べたとおりであり、ましてや、その一輩下にすぎないAに対して事前に殺意を抱くような契機の存したことを認めうる証拠はない。

しかるところ、検察官は、被告人甲のB殺害の動機について、同被告人の捜査段階における供述が、本件の背景事情等を考えると不自然であり、何らかの形で組織的な指示があったことは考えられるところではあると述べながら、それ以上に明らかにしようとしない。

3  現場に侵入した者について

すでに認定した事件発生当時の丙興業とB総業間の緊迫状況、事件前後の状況、すなわち、○○アパートへは、丙と丁が、Bを捜しに率先して赴き、その前に立寄った××マンションでは喧嘩腰でBらを呼び出そうとしたこと、右アパートの周辺の状況と住人の供述、事件発生後間もなく丙興業事務所の状況が急転し、被告人甲は丙及び丁と共に上京し、被告人乙らも一斉に引揚げており、丙と丁は、事件発生直後、被告人甲の報告を得るまでもなくその内容を知っていたと推認されること、現場の事件直後の状況からは、Aは、現場において、侵入者に対し、その入口付近ではさしたる抵抗もしえずに忽ち奥の六畳居間に追い詰められ、完全に制圧された状態で至近距離から銃撃されたものと想像されること、被告人両名の捜査官に対する供述に丙や丁らを庇う態度が顕著に認められること並びに被告人甲の公判廷における供述及び同被告人作成の上申書等を総合すると、現場には、同被告人が供述するように、丙と丁が同被告人に先立って侵入した蓋然性が相当に高く認められる。

4  被告人甲が捜査官に述べた犯行状況について

被告人甲は、捜査段階では、A殺害の状況について、一貫して、現場には独り侵入し、同人と格闘となった末、同人を本件けん銃で射殺した旨供述している。

しかしながら、前記のとおり、同被告人の捜査段階における供述は、多くの虚偽、虚構を含み、全体として信憑性に乏しいものであるうえ、右犯行状況に関する供述自体についても以下のとおり、到底、看過しえない多くの疑問点が存する。

(一) 現場に侵入した経過について、玄関先でAに対し、Bの所在を尋ねたところ、同人から素気なく不在を告げられ、押し戻されたのでむきになって土足のまま押し入った旨供述するが、同被告人がその少し前に××マンションで示した消極的態度を考えると、同被告人にそれ程までにして侵入すべき動機を認め難いこと。

(二) 同被告人がAに玄関のドアを開けさせるまでの行動について、当初は、ドアを激しく叩いたり蹴ったりしながらBの名を怒号して呼びかけた旨供述していたが、その後、ドアを軽くノックし、「誰かいませんか。」、「代表の方いませんか。」、「ちょっと開けて下さい。」と声をかけた旨に供述内容を大きく変えたこと。

(三) 室内に上り込むまでの行動について、Aがドアを外側に開けたので、素早く中に入り、Aから押し戻されそうになったので、後手でドアを閉めた後、同人と掴み合い、押し合いをしながら上り込んだ旨供述するが、右状況下で同被告人がそのようなドアの閉め方をする余裕のあったことが想像しえないこと。

(四) その後、Aと揉み合いながら、奥の六畳間に至り、同所では、互いに怒鳴り合いながら、倒したり倒されたりの格闘となり、同人に対して、殴る、蹴るの暴行を加え、自らも同様の反撃を受け、最後は、同人に体当りし、同人は、南窓辺に背中を当てて尻餅をついた旨供述するが、前記のとおり、犯行直後にBらが赴いた時の現場は、奥六畳居間が乱れていたほかは、建具や家具等に目立つような損傷はなく、殊に入口の部屋は全く荒らされた形跡がなかったことを考えると、右の経過を想像しえないものがあること。

(五) また、○○アパートは前記のとおり、小規模の木造二階建のものであり、当時、現場で右のような激しい争いが演じられたとすれば、当然、同被告人らの声や物音が周辺に聞こえた筈であるが、前記のとおり、被告人乙や右アパートの住人はそのような人声や物音を耳にしなかった旨供述し、なお、証人丙、丁も同様に供述すること。

(六) この間、本件けん銃を左脇腹から取り出し、右手で普通に持ち、右肩の高さ位に振り上げ、けん銃の銃把(グリップ)の底でAの左顔面から額のあたりを殴りつけ、これにより同人がよろめき、怯んだと供述し、〈証拠〉によると本件けん銃は少なくとも六七〇グラムを超える鉄製の重いものであることが認められ、これによると、同被告人が、もし、Aを右のように殴打したとすれば、同人の顔面には相当の打撲傷が生じた筈であるのに、前記のとおり、同人の身体にはそのような傷跡が存しなかったこと(なお、前記一の4の(二)で認定のとおり、Aの左外眼角部に打撲傷が認められ、右傷害が前記グリップの底で殴打した結果生じたものとして、前記被告人甲の調書が作成されているが、右成傷原因はグリップの底による殴打とは考えられないことは後記8に説示のとおりである。)。

(七) また、被告人甲は、Aに対し、けん銃を取り出す前に、〈1〉素手で相手の顔や身体をところかまわず殴ったり又蹴ったりした旨、或いは、〈2〉両手の拳で力一杯相手の顔や腹のあたりを無茶苦茶に殴りつけた旨各供述するが、医師支倉逸人の鑑によれば、Aの顔面や腹部には、打撲傷と認められる負傷は二、三しか認められず、しかも、そのうちの左外眼角部の打撲傷がけん銃で殴打されたことにより生じたことは後記8のとおりであって、被告人甲の供述する暴行態様と、被害者の負傷状況が大きく相違すること(なお、顔面部の圧迫痕については、後記8で説示する。)。

(八) 前記一の5の(一)で認定のとおり、同被告人は、その翌日、捜査官の許に自首して出たが、その際に、その身体には右の格闘に相応する痕跡が認められなかったこと。

(九) 格闘中、けん銃を取り出し、Aを窓際に尻餅をつかせて追い詰め、完全に制圧しながら、敢えて更に同人を銃殺する程の動機を認めるに足るものがないこと。

(一〇) 前記一の5の(三)の(1)のロの〈2〉、〈2〉’のとおり、Aを銃撃した際の自らの姿勢について、当初は、中腰より低目に構えたと述べながら、その後、トイレでしゃがんだような姿勢だったと供述を変え、また、当初は、けん銃を相手の喉の辺りに向けて引き金を引いたと述べながら、その後、その顔に突き出しざま引き金を引いたと供述を変えていること。

(一一) 同被告人が作成した犯行図によると、当時着用していた上衣は、その裾が、ズボンのベルト辺に止まり、したがって、ズボンの表面は大部分が外部に露出されていたものと認められるところ、前記一の4の(四)で認定のとおり、そのズボンの前面には、血痕が認められるものの、腰から約三〇センチメートル下までの部分にはこれが認められず、また、右血痕が、右脚部分は殆ど内側に、左脚部分は主として外側に、かつ、いずれも略一様に点在しており、右の血痕の付着状況は、同被告人の供述する射殺時の同被告人とAの位置、体位から想像される状況、すなわち、右ズボンには、血痕が膝から腰の辺に至るまで付着し、膝から下の部分より上の部分に集中する筈であり、右脚の内側部分と左脚の外側部分に同時に付着する現象は想像しえないことなどに照らして不自然であること。

(一二) 同被告人が現場に赴いてから車に戻るまでの間に少なくとも一〇分前後が経過したところ、その供述内容からは、そのように長い滞在時間を想像しえないこと。

(一三) そして、何よりも、同被告人は、Aが南側の窓を背にし、北向きに腰を落として片脚を前に投げ出し、片脚を折り曲げた姿勢になった状態の時、その正面から同人を銃撃し、同人が、被弾と同時に折り曲げた脚を前方に伸ばし、自分は、その直後そのまま現場を離れたと供述し、また、前記一の4の(五)のとおり、Aはその後、自ら身体を動かすことはできなかったものと認められるところ、前記一の4の(二)で認定のとおり、その後、Bらが同人を発見した時は、同人は、右の状態と九〇度方向を変え、レターケース付書庫の上に頭を仰向けに乗せ、南側窓に並行に両脚を西方に揃えて伸ばした状態となって発見されており、同被告人の右供述は、Aを銃撃して以後の同人の右の状態の変化を説明することができないこと。

(一四) さらに、A殺害後の状況につき、被告人甲は、Aにけん銃を発射した後、ヤバイ、逃げなくちゃという気持が起き、本件けん銃をズボンの腹に隠し、逃げ出した旨供述するが、もしそうであれば、本件けん銃には、Aの飛散した血液や硝煙が付着していたはずであるから、当時被告人甲が着用していたズボンの前面裏側(腹の部分)には、血痕や硝煙の付着が認められなければならないところ、〈証拠〉によると、右ズボン裏側には、血液の付着や硝煙の付着を認めることができないこと。

以上のように、被告人甲の捜査段階における供述には、多くの疑問点があり、到底、これをそのまま措信し難いものである。

5  現場の再現について

(一) 〈証拠〉によると、長野県警察本部刑事部鑑識課所属の司法警察員大池尉之らは、昭和六三年四月、事件発生の約二時間後に見分の行われた検証の調書、そのころ撮影された写真及び当時現場に存在した押収物に基づいて現場六畳間の事件発生直後の状況の再現を試み、これによる見分(以下「第一次実況見分」という。)を行ない、現場におけるAの血液の付着状況とその噴出位置を以下のとおり認定及び推定したことが認められる。

(1) Aは、その頭部を別紙見取図第7図のレターケース付書庫上に載せた状態で傷口から多量の血液を流出させ、これがその側面を伝わって下降し、カーペットに相当量滲んでいる。

(2) 同人の傷口から噴出したと思われる血液は、右見取図の基点を中心とすると、略北方から東方にかけて飛散し、それが、少なくとも右見取図の〈1〉ないし〈21〉表示の位置まで達している。

(3) 右の痕跡は、右見取図の敷布団上には、その東南の点線で囲まれる範囲内に、カーペット上には基々と〈6〉ないし〈7〉の点を結ぶ直線より南方に、かつ、略〈1〉ないし〈7〉の各点を順次結ぶ直線より西方にそれぞれ分布している。

(4) 右血痕は、概ね基点に近付くにつれ密集化するとともに大きくなり、それが、右敷布団の東南角部分において顕著である。

(5) 血痕の中には、右基点の方から飛来した方向性を示すものがある。

(6) 敷布団上の血痕の分布の外縁が波状を形成しているのは血痕が飛散した当時、その表面に凹凸があったことを示すものと考えられる。

(7) 別紙見取図8図に示すとおり、敷布団上に擦れた血痕が三か所認められる。

(8) 右(4)の血痕の分布状況と(5)の血痕の方向性及びAが被弾直後に右レターケース付書庫の上に頭部を載せたものとして想定した同人の傷口(顔面中央部の上口唇辺)の位置から、右血液の噴出源を別紙見取図第7図のレターケース付書庫の西方四八センチメートル、南壁から北方二一センチメートルの基点表示の位置で、床上七七センチメートルの高さにあったものと推定する。

以上のとおり認定と推定を行ったことが認められる。

(二) しかしながら、第一次実況見分には、以下に述べるとおり、正確性についての限界と誤りがあるといわなければならない。

(1) 右実況見分における現場再現の資料となった前記検証調書及び捜査報告書は、事件発生から約二時間後に行われた検証ないし写真撮影に基づくものであるところ、〈証拠〉によると、事件発生直後、右検証が行われる前に、現場には消防署員やB、Fらが出入りし、Aの身体を移動させるなどしてある程度付近の物を動かした可能性があり、その点では右資料としての検証ないし写真撮影自体に事件発生直後の状況を示すものとしてはその正確性に自ずから限界があること。

(2) 第一次実況見分は、事件発生から二年余りを経て行われたものであり、カーペットや食器戸棚、レターケース付書庫などは実物が残っていないため、その部分への当時の血液の流出や飛散状況は、専ら写真に頼らざるをえず、しかも、血痕か否かの識別はすべて肉眼観察による経験的判断によって行ったものであり、右の各点で血痕の分布状況の認定にはその正確性に自ずから限界があり、特にカーペット上の血痕の分布状況が不明な部分が多い。

(3) 右実況見分においては、その調書の第二の五2「証拠物の血液付着状況」の項で報告されたとおり、現場にあった枕については、調書添付の写真が示すように、これが掛布団の上に置かれた状態で見分が行われ、これに血液の付着が認められないものとされている。

しかしながら、右枕のカバーの裏側には、一見しただけでも敷布団上のものと同様にいくつかの血痕と思われる付着物が明らかに認められ、殊に裏側の枕の出し入れ口側のひだ部分(ひだに円形の穴がある方)にはそれが多数認められる。

右事実は、Aが被弾直後に傷口から血液を噴出させた当時、その付近に右枕が裏返しになった状態で置かれており、これに飛来した血液が付着したことを推認させるものである。

ところで、前記検証調書、枕及び提供写真第14号によると、事件発生後間もなく現場で検証が行われた時、右枕は、略別紙見取図第6図のように掛け布団の上に、表側を上にし、枕カバーの口部分を略南にして置かれ、敷布団の東側が西方へ押し上げられた状態にあったことが認められる。

そして、右各事実からは、右枕が、平らに敷かれた敷布団の上に裏返しに置かれていた状態でAの右血液を付着させた後、敷布団が右のように押し上げられた際これが西方に半転し、右検証時のような位置に至った事態を想像しうるところ、これを前提として、第一次実況見分により再現された敷布団上の血痕の付着状況及び右枕の形状(カバーのひだ部分を含めると縦、横が約七〇センチメートルと約五〇センチメートル)によって、右枕の血液付着時の位置を求めると、右枕は、当時、カバーの南辺を略別紙見取図第7図の〈21〉ないし〈17〉の各点付近にし、東側を〈17〉、〈16〉、〈15〉の各点付近にした状態で置かれていたものと推認するのが相当であり、このことは、右〈15〉と〈17〉の各点間の長さが右枕の縦の長さと略符合することによっても裏付けられるところである。なお、右枕をこのようにして置くと、その東側部分にも相当数の血痕と思われる付着物が、更に、北西端及び北東端にも同様のものがそれぞれ認められる。

そうすると、第一次実況見分において、Aからの飛散血液が、右見取図の〈15〉点を除き、〈13〉ないし〈21〉の各点を順次結ぶ線より西方又は北方には至っていないとした見分結果は、明らかに誤ったものであるといわなければならない。

(4) 右実況見分自体によっても、Aは、南窓際で顔を北東に向けた状態で銃撃され、それ故、自らの傷口からその方面を中心として扇状に血液を噴出させたものと想像され、その血痕の分布状況から、右噴出源の顔面中央部(上口唇)の位置を別紙見取図第7図の基点の付近にあるものと考えることは一応可能であるとしても、その位置及び床からの高さをを求めるにあたって想定したAが銃撃された当時の状態については、その前提が根拠を欠き、したがって、これに基づく右噴出源の高さの推定も合理性のないものといわなければならない。すなわち、

右実況見分にあたり、捜査官らは、Aが、当時、別紙見取図第7図の座布団表示の位置に重ねられた長座布団四枚と座布団一枚の上に北向きに腰を落とし、両脚を前方に伸ばした状態で銃撃され、そのまま身体を右に倒して頭部をレターケース付書庫上に載せた後多量の血液を流出させたものと想定し、これに基づき、同人の当時の腰の位置と顔(傷口)の高さを推定している。

しかしながら、前記一の4で認定したとおり、Aは、右の位置辺で窓を背にし、北向きに腰を落し、少なくとも右脚を前に伸ばした状態で犯人の銃弾を受けたが、その後、BらがAを発見した時には、同人は西向きに、背部を右書庫の西側面にもたれかけさせ、頭部をその上面に仰向けに載せ、両脚を西方に伸ばし、身体を窓側と並行とした状態で横たわっており、この状態で右書庫上に多量の血液を流出させていたものであり、それ故、検察官が論告で指摘する(員)小松嘉昭の63・5・16付報の写真161ないし163のように、Aの背部には右書庫上から下降した多量の血液の浸透が認められるのである。

このように、Aが被弾した直後とその後、同人がBらに発見された当時とは、その体位が大きく異っているところ、同人が被弾した当時、右見分時の位置でそのように五枚もの座布団が重ねられた上に腰を置いていた事実や同人がその直後に身体を右に傾けて右書庫上に頭部を載せた事実を窺わせる証拠はない。

むしろ、この点については、被告人甲の捜査段階及び公判段階を通じて一貫する供述と同被告人作成の犯行図によると、Aは、右書庫とは相当離れた南側窓部の中央よりやや右(西)側で、これを背に、腰を直接床に落した状態で犯人の銃弾を受け、その直後、右書庫とは反対の西側に身体を傾けたまま動かなくなった蓋然性が高く認められるのである。

したがって、第一次実況見分は、Aの被弾時の顔面部の位置や高さを想定した前提事実が根拠を欠くものといわなければならない。

6  犯行状況の再現について

(一) 〈証拠〉によると、捜査官らは、前記5の第一次実況見分による再現現場におけるAの血液の飛散状況と、これにより推定した前記の同人の血液噴出源の傷口の位置、高さを前提としたうえで、更に見分を行い(以下「第二次実況見分」という。)被告人甲と同身長の者が別紙見取図第9図に推定右趾、推定左趾と表示された個所にそれぞれ右足、左足を置き、けん銃を射撃時の最も自然な体位(中腰)で構えると、その銃口が右の推定血液噴出源の数センチメートル手前に達し、一方、Aと同身長の者が第一次実況見分時に推定されたAの被弾当時の位置に座り、右銃口に右血液の噴出源すなわち、弾丸の射入口を合わせ、その射入方向に弾丸が入るように顔を向けると、その体位は第一次実況見分により推定されるAの体位と同じになり、また、右の犯人が右の場所で右のように構えた場合には、犯人のズボン上には被告人甲が事件当時着用していたズボン上に認められた血痕の分布状態に符合するように飛散血液が付着するものとの見分結果を得たことが認められる。

(二) しかしながら、右の結果は、以下のとおり、その正確性にもともとの限界があるうえ、誤りと矛盾、不確定の要素が余りに多いものといわなければならない。

(1) 第二次実況見分は前記5の第一次実況見分を前提として行われているところ、すでに述べたように、同実況見分には前記5の(二)の(1)ないし(4)のとおり、当時の現場の正確な再現には自ずから限界があったし、枕に血液が付着していたことの重大な見落しがあった。

(2) 前記5の(二)の(4)に述べたとおり、第一次実況見分によるAの被害当時の顔面、すなわち、血液の噴出口の高さの認定は根拠を欠いており、これを前提とした第二次実況見分における犯人の位置や姿勢の検討も無意味なものとならざるをえない。

(3) 第二次実況見分においては、別紙見取図第9図に表示の各位置に両足を置いた犯人を想定し、種々検討を加えているが、敢えてそのような想定ができたのは、その部分より北方(右噴射口より遠方)に血痕が認められないことにあると考えられるところ、そのような現象は、その部分に右のように同一人の片足ずつが置かれなくとも、同様の血液の飛行を妨げるべき物が存在すれば起こり得るものである。つまり、右の両足の置き方は、考えうる一つの仮定にすぎないものである。

しかも、右想定によると、Aの血液が犯人の股間を通過して右図面の〈8〉や〈15〉の点まで達したことになるところ、噴出した血液の粒子がそのように遠方まで直線上に飛行することは経験則上想像し難い。

また、右の血液の粒子が右犯人に向かって飛行するときは、それが直線状、放物線状のいずれであるとしても、股間の高い部分を通過するものは遠方に、低い部分を通過するものほどその手前に各落下することは経験則上明らかであるところ、右見取図上の各先端の血痕を示す〈8〉ないし〈13〉、〈15〉を順次結ぶ線で形成される外線の形状は飛行方向による勢いの差がありうることを考慮してもなお、右経験則に沿わない不可解なものといわざるをえない。

更に、右犯人が右のように構えていたとすると、第一次実況見分により認められる右の各足跡付近に在り、かつ足の下にはなりえない、別紙見取図第8図に表示された〈あ〉、〈い〉のそれぞれ擦れた血痕の認められる部分及び右の左足跡付近の血液の付着しない部分が存在することもまた不可解である。

この点について、検察官は、犯人が射撃直後に足を動かした際にズボンの裾等によって擦れたものと推定されると説明するが、特殊な可能性の一つを示したものにすぎない。

しかも、以上の議論は、前記机上の血液の付着を見落したうえでのものであって、推定右趾付近に前記枕があったことを考えると、右検察官の推定がほとんど根拠をもたないというべきものである。

このように、第二次実況見分で推定右趾、推定左趾に同一人が足を置いていたものと想定したことには合理性を欠くものがあるといわなければならず、なお、右の各推定趾には、その周辺の血痕の分布状態からみると、それぞれ、更に大きな障害物が存在した可能性も否定できない。

(4) 第二次実況見分において想定した被害者Aと犯人の各体位が根拠を欠くものであり、また、犯人が想定場所に足を置いていたと考えることにも合理性がないことはすでに指摘したとおりであるが、仮にこれが正しいものとしても、これに被告人甲が着用していたズボン上の血痕とを併わせ考えることにより右犯人が直ちに被告人甲であるとすることはできないものである。

先ず、右実況見分の結果によると、Aは犯人をやや見上げるような姿勢で銃撃され、したがって、射入口(傷口)をやや上向きにして血液を噴出したものと想像される。そして、〈証拠〉によると、右噴出現象は一秒以内で終ると想像されるほど瞬時のものであることを考えると、見分時のように構えた犯人のズボンには、当然、膝から下より上の方がより多くの血液が飛散、付着するものと想像されるところ、被告人甲の右ズボンには、前記のように、腰から下三〇センチメートルまでの部分には血痕の付着はなく、また、血痕が、膝の上下には関係なく略一様に点在しているのであって、この点において右犯人のものとは符合しないこととなる。

次に、見分時のような犯人とAの位置関係からは、Aが噴出した血液は犯人の右脚の前面左右と左脚内側に付着するものと想像されるところ、被告人甲の右ズボン上には、血痕が右脚については殆ど内側、左脚については主として外側に、しかも左脚の下部辺に比較的多く認められるのであって、この点においても右犯人のものとは符合しないこととなる。

そして、更に重要な点は、被告人甲の右ズボンに認められる血痕は、右見分時の犯人の位置と構えでしか生じえないものと断定すべき何らの資料も存しないことである。

同被告人は、一貫して、自らがAが射殺された当時、その付近に居合わせて、同人の血を自らのズボンに受けたことを認め、また、証拠上も一応これを認めうるものである。

しかしながら、当時のAの噴出血液が扇状を形成するように広い範囲に飛散したことを考えると、被告人甲の右ズボン上の血痕が生じうる位置はいかようにも想像しうるものであり、この点においても右実況見分は資料としての限界があるものといわなければならない。

あえて、被告人甲のズボン上の血痕自体から想像するとすれば、同被告人が、当時、Aが噴出する血を腰から三〇センチメートルより下の部分に左前方から受ける位置に佇立していた状況を考えることができる。

(5) 別紙見取図第7図、第9図に表示された〈1〉ないし〈21〉の各点は、第一次実況見分において、その方向に飛行したと認められた各最先端の血液の跡を示したものに過ぎず、右見分においては、右各点を順次結ぶ線の範囲内の血痕の分布状況を詳細に明らかにしたものではなく、特に今や現存しない当時のカーペット上のそれを正確に知ることは殆ど不可能である。

(6) そして、本件の資料としての第二次実況見分の決定的限界は、これにより、事件当時、現場にAと被告人甲のほかに居合わせた者の有無を知りえないところにある。

本件は、被告人甲が、現場には丙と丁も侵入し、丁がAを射殺した旨主張して争っている事案であり、しかも、その前後の経過からみて、同被告人が述べるように右両名が侵入した蓋然性が相当に高く認められるものである。

したがって、犯行現場の状況の分析、検討にあたっては、右の点、すなわち、丙と丁が居合わせた可能性とその場合の各人の行動についても留意しなければならない。

しかし、右実況見分は、右の点には触れておらず、この点において、資料としての限界があるものといわなければならない。

しかも、前記のとおり、Aは、別紙見取図第9図上の基点より更に西方の、南側窓部分の中央より右寄りで被弾した蓋然性が認められ、そうであれば尚更、そうでなくとも、同見取図上の血痕の付着の認められない部分には勿論、推定右趾、推定左趾付近、〈12〉点表示付近、別紙見取図第8図上の〈あ〉ないし〈う〉の擦れた血痕の認められる部分付近、血痕の付着しない部分と表示された部分には、それぞれ、被告人甲又はその他の侵入者の足などが置かれていたことなどを想像しえなくもない。

7  検察官の主張について

検察官は、供述証拠をまつまでもなく、第一次、第二次実況見分の結果及び被告人甲のズボン上の血痕のみによってAを射殺した犯人が同被告人であることを論証しうる旨主張する。

しかしながら、5、6で検討したように、右各実況見分の結果には重大な見落しと疑問、資料としての限界があり、右主張のように、これによって同被告人の右犯行を認めることは到底できないものである。

すでに繰り返し述べたように、本件は、現場に被告人甲のほかに同被告人の主張するように丙、丁も居合わせたか否か、丁がAを射殺した可能性があるか否かが問われ、それ故に長期に及ぶ審理がなされてきた事案である。

しかも、すでに述べてきたとおり、その前後の経過からみて、少なくとも丙、丁の両名も当時現場に侵入した蓋然性が高く認められる事案である。

したがって、現場における当時の状況を検討するにあたっては、被告人甲がAを殺害した可能性を検討する一方で右両名が現場に居合わせた可能性、更には丁が右犯行に及んだ可能性も検討されなくてはならない。

このことは、被告人甲の右犯行の可能性についても、その場における犯行経過を、その際の右両名の存在、行動の如何に留意しつつ検討する必要があることをも意味するものである。

右各実況見分は、当初から、被告人甲の犯行の可能性のみを追及し、それ故に同被告人と同身長の警察官のみをモデルとし、しかも、Aが銃撃された瞬間の状況のみを再現、検証しようとしたものにすぎない。そのうえ、右見分は、同被告人について考えうる可能性の一つに固執し、しかも、それが、現場状況についての誤った見分と根拠を欠く前提に基づいて行なわれたものであったことはすでに述べたとおりである。

また、仮に、第二次実況見分において示された犯人の体位が合理性をもって想定されるとしても、右犯人の位置で同被告人と身長のさ程に異ならない者が兇行に及び、その際、同被告人がその付近でAの血液を受け、当時の着用ズボンにあるような血痕の生ずることもありうるのである。

検察官は、右各実況見分の結果に同被告人の捜査段階での供述が極めて合理的に合致するのに対し、同被告人の公判廷での供述が矛盾する旨主張する。

しかしながら、同被告人の捜査段階における供述が全体として信憑性に乏しいものであることはすでに詳述したところであり、その一部のみを取り出して自らの推論に当てはめようとすることには事実を誤認する危険が多分に存するものといわなければならない。

検察官は、同被告人の捜査段階での供述が右第二次実況見分の結果のAと犯人の各体位に一致する旨指摘する。

しかしながら、前記のとおり、同被告人が捜査段階において述べるAの被弾時の位置及び高さ等は、右見分時において想定されたものとは著るしく異なっており、また、同被告人は、公判開始後、一貫して、右犯人が丁であると主張しつつも、捜査段階で供述した犯人としての自らの体位は真犯人の丁に自らを置き替えたものであると述べ、右のAと犯人の体位、位置関係についての右捜査段階時の供述内容はこれを変えていない。

検察官は、犯人である被告人甲の当時の記憶として正確性を期待できるのは双方の顔面を中心とした相対関係にあるとして、右のAと犯人の体位についての第二次実況見分の結果と同被告人との供述内容の相違する点についての疑問を解消しようとするが、被告人甲が、自ら兇行に及んだにせよ、丁がそれに及ぶのを目撃したにせよ、銃撃の寸前に犯人の自ら或いは丁が、Aに対し、右実況見分におけるように攻撃的な緊張した構えを示したか、それとも、自らが述べるように、しゃがみ込んだ、余裕のある姿勢で臨んでいたかの相違を忘却することは到底考えられないところである。

検察官は、更に、右実況見分の結果に固執し、射殺犯人が丁であるか被告人甲であるかはともかくとして、犯人の位置は右見分時に推定した場所以外にありえないとして、これを前提とし、被告人甲が供述する丁との相対関係からは同被告人に当時のズボンに認められるような血痕は生じえない旨主張するが、右の前提が根拠を欠くものであることは前記したとおりであり、むしろ、右血痕の付着状況は右前提自体の誤りを示す一証左ともいうべきものである。少なくとも、他の検討を尽すことなく右のような断定を行うことは甚だ危険である。

しかるところ、検察官は、被告人甲が公判開始後に述べる事件現場における状況について、それ以上に論及しない。

8  被告人甲が公判開始後に述べる犯行状況について

被告人甲は、公判廷において、事件発生当時の事件現場の状況を骨子以下のとおり供述する。

ドアが一五センチメートル位開くと、相手のAは、自分達三人を認め、懸命に閉めようとした。しかし、丁と丙は、ノブとその上にそれぞれ手をかけており、こじ開けて室内に肩からスッと入った。自分は、三、四歩手前で見ていたが、一瞬ためらい、五秒位して後に続いた。二人が入った直後、ドアが殆んど閉められており、当時手袋をしていなかったので指紋が付くことを考えたからである。二人はすでにいずれも右手に手袋をしていた。自分は、ドアを開けて突っ込むように侵入したら入口付近に布製の衝立があり、これに当り、よろめいた。奥から丙が「おい気をつけろ。」と注意した。そのまま現場六畳間に進むと、敷居の左手にあった電気炬燵にぶつかって転ろんだ。二人は、別紙見取図第4図の南窓際西方の長座布団と表示された辺で北を向き、背後の桟に腰を乗せるような姿勢となったAに対し、丁が奥の左側で、丙がその手前右側でそれぞれ殴りつけていた。自分は、右図面のまくらと表示された左下辺で見ていた。そのうち、Aはずるずると腰を落し、丁もこれに応じてしゃがみ、「どこにいるんだよ。」とBの所在を質し始めた。丙も二言三言付け加えたと思う。四、五分すると、Aは、逃げようとして、両名の間を突進してきて自分にぶつかった。自分は不意を突かれて後方によろめいてタンスか障子に手をついて踏み止った。丙と丁はAの肩を押えて同人を元の場所に押し戻した。同人は、今度は床に直接腰を落し、南側窓の中央よりやや右(西方)に背を窓側につけ、右脚を前に伸ばし、左脚を折り曲げて立てた姿勢となった。丁は、その左手前で、Aが伸ばしている右脚を跨ぎキャッチャーのような姿勢でしゃがんで同人に対すると、再び、「どこにいるんだよ。」、「言えよ。」と執拗に迫った。Aは、「当番ですから、わかりません。」などと繰り返すばかりだった。自分は、丁の背後、やや右後方一メートル位の所に、丙は、自分の右前方、丁の背後付近にそれぞれ立ち、その様子を見ていた。Aの風ぼうは、ヤクザには見えず、どこかの百姓が電話番でもしに来ているような感じがした。そのうちに、丁が、ジャンパーのポケットからけん銃を取り出した。そして、これを右手に、その銃口をAの顔面二〇センチメートル位前に突き出し、「言えよ。」とか、「撃つぞ。」などと言いながら更に迫った。しかし、Aはやはり、知らないの一点張りだった。自分は、「こいつ、知っているのか、いないのか」判らなくなり始めた。そのうち、丁は、けん銃の銃身を左手で握り、これを左横に払うようにしてAの顔面を一度パチンと殴りつけ、再びけん銃を右手に戻すと、「言え。」と申し向けざま、今度はその銃口を同人の口の中へ突っ込み、そのまま、更に左手で同人の顔を鷲掴みにし、「どこにいるんだよ。」、「言えよ。」などと責め続けた。しかし、Aは、やはり「知りません。」の一点張りだった。自分は、同人の顔とか態度をみて、この野郎は殺されてまで組長(を)守るようなタイプじゃないと思った。そして、同人のその「知りません。」の答えが真に迫ったように見えた。そこで、自分は、丙の方を向き、「知らないんじゃないですか。」、「どうするんですか。」と目くばせした。丙は、腕組みをし、しかめっ面をして、手のところに指を当てて、「いいから任せろ。」というような態度を示して答えた。丙の態度は、相手をいじめている感じだった。Aは、口をもごもごさせながら、知らないと答え続けた。丁は、時折、「言えよ。」、「こら。」などと声をかけたり、銃身を一度相手の口から抜いて中腰になり、しゃがみ直して再びこれを相手の口の中へ入れた。Aは、両手を前に出し、横に動かしたり、押すようなしぐさをしたりしていやがっていた。このような状態が四分位続き、自分は、少しキョロキョロし、勝手の方を見始めていた。すると、突然、「パン」と音がした。瞬間、「撃ったな。」と思った。そちらを見ると、丁は、けん銃を持った腕を垂らすみたいにした後、そのまま立上った。自分は、同人がAの口の中を撃ったと思った。Aは、鼻のあたりから血をドクドク出し、口から血の泡を吹いていた。そして、それまで折り曲げて立てていた左脚を右脚と同様に前(北方)に伸ばし、上半身を左(西)側に六〇度余り倒して左斜めの形となって止まった。まさか丁が本当に撃つとは思わなかった。丁は、「俺ら知らねえ。」、「何かあった。」というような言葉を二回繰り返し発した。丙が、「行こう。」と促し、丙、自分、丁の順で部屋を出て車に戻った。丁は、四〇秒から一分近く遅れて車に戻ってきた。

被告人甲は、以上のように供述し、その内容は、具体的かつ詳細で、経験した者でなければ語りえない迫真性と臨場感を覚えさせるものがあり、同被告人がその前に作成していた前記上申書の記述内容とも一致する。

右上申書の記述内容も右供述に劣らず、臨場感と迫真性を覚えさせるものがあり、丁がAの口の中に銃口を入れた直後の様子を、

Aは、モゴモゴ言って、今にも泣き出しそうな顔をしていました。すると丁は、「ハッキリ言えよ。」と言いました。当然はっきりなんて言えるはずはありません。ほんのちょっと経つと、丁は、Aの顔をぐーとアイアンクローのような恰好でつかみ、「コラー」とか「オラー」とか言っていました。

と記述し、丁がAを射殺する直前からの様子を、

……ああ、わからねえか……もう帰るだろうなあと緊張しているのが一段落して、ああ表から誰か見てねえかなあと? 奥の方を一〇秒位見てると、急にズドーンと鳴って、すぐ振り返ると、Aが、うーとか言って倒れそうになってました。自分は、心の中で、あー、やっちゃったーとあとは頭が真空状態になるみたいな気持でした。……丙が、「行こう。」って言って、出ようとすると、丙と自分が出口の方を向くと、丁は、何かをかけたか、何かしたみたいで、ゴチョゴチョと、ちょっとやってから出口の方へ来ました。

と記述しており、なお、右上申書のA殺害場面の記述部分の脇には、その場面が描かれており、その情景が、被告人甲の公判廷における供述内容に符合している。

そして、被告人甲の公判廷における右供述と右上申書の記述中の、現場で、丙と丁が忽ちAを奥六畳間に追いつめた状況は、前記一の4の現場の入口の事務室が乱れていなかった状況に符合し、その後、丁がAを殺害するまでの経過は、概ね、同被告人が自らを丁に置き替えたという捜査官に対する供述内容に符合し、射殺時の状況に関する部分は前記犯行図にも符合し、丁がけん銃の銃身を左手に掴んでこれを横に払うようにしてAの顔面を殴りつけたとする部分は、〈証拠〉により認められるAの左外眼角上方の、本件けん銃の銃把(グリップ)部分の格子模様と同じ模様の打撲擦過傷に符合し(なお、グリップの底で殴打したのでは、右格子模様の傷が生じることはありえない。)、丁がAの口に銃口を入れたまま、その顔面を鷲掴み(アイアンクロー)したとする部分は医師支倉逸人の鑑により認められるAの生前に生じた上口唇粘膜の口部周辺の圧迫に伴う歯牙による挫裂創及び右頬と左頬三か所の各圧迫痕並びに前額部右端の擦過傷に符合し、Aが銃撃され、血液を噴出させた際の被告人甲の位置に関する部分は同被告人が当時着用していたズボン上の血痕とその分布状況、すなわち、それが、腰から約三〇センチメートル以下に、大部分が右脚の内側と左脚の外側に付着している状況に符合する。

また、被告人甲が述べる当時の丁の行動、殊に、しゃがんだ姿勢でAに対したり、わざわざ銃身を逆さにし、左手に持ち替えたりする余裕や同人を至近距離からその顔面中央を銃撃することなどは、自らが圧倒的優位に置かれてはじめて可能なことであり、相手と単独で対決した場合を想定すると到底考えられない行動である。

このように、被告人甲の公判廷での供述と上申書の記述には、いずれも極めて高い信憑性が認められる。

そして、右供述等によると、被告人甲は、Aが銃弾を受け、自らの血液を噴出させた当時、比較的離れていたことから、自らの着衣に硝煙が付着する筈がなく、また、腰から上の上衣にはその血を受けずに済んだものと考えられるところ、このことに前記の、同被告人が本件実行犯として自首しながら、右上衣を持参しなかったこと及び同被告人の供述、すなわち、自首前にD睦会の事務所に立寄った際に、Dが、右上衣を調べ、これに硝煙も血痕も付着していないことを理由に廃棄を命じた旨の供述を併わせると、現実にその供述どおりの出来事があった蓋然性が高く認められる。

また、同被告人の前記6の、丁がAを銃撃した直後のAの状態、すなわち、南窓際の窓部分の中央よりやや右(西方)に、窓に背をつけて腰を直接床に落し、両脚を前方(北方)に伸ばし、上半身を左側に六〇度余り曲げた状態と前記一の4のその後Bらが現場で発見した際のAの状態、すなわち、同人が頭を東方のレターケース付書庫の上に仰向けに載せ、両脚を西方に伸ばして窓側に並行の状態で座布団の上に載せ、右書庫上に多量の血液を流出させていた状態とに大きな相違があることについては、右各事実に被告人甲の前記の、丁が、Aを殺害した直後、三人が部屋を出た際、丁が最後となり、室内で何かゴチョゴチョやっており、車に戻るのが遅れた旨の供述と記述を併わせ考えると、丁が、右犯行後、現場を離れる前にAの身体を右発見時のように移動させたと考えると辻褄が合うこととなり、現実にもそのようなことが行われた蓋然性が相当に高く認められるものである。

六  まとめ

本件は、暴力団の組員であったAが組事務所内で、何者かによって、けん銃で、その顔面中央部を射撃されて殺害された事件について、被告人甲がその殺害者として、被告人乙が被告人甲のために見張りをつとめたものとして訴追され、審理されるに至った事案である。

事件は、残酷なものであり、被告人らが敢えてこれに及んだものとするならば、それなりの動機と経過が認められて然るべきものである。

しかるところ、被告人両名は、その翌日、右の各犯行に及んだ者として捜査官の許に赴いて自首し、以後、捜査段階においては、本件公訴事実を認める供述を続けており、また、少なくとも、事件発生当時、被告人甲が現場に居合わせ、Aが殺害された際、その近くにいて、同人が噴出した血液を着衣に受けたこと及び被告人乙が現場の在る○○アパートの前の路上に駐車した車の付近で被告人甲及びそれまで同行していた丙、丁を待機していた事実については、被告人両名が認めるところであり、各証拠によって認めうる動かし難い事実である。

しかしながら、公判開始後、被告人甲は、自らに対する公訴事実を否認し、現場には丙と丁も入っており、Aを殺害したのは丁であり、自らは同人の身代りとして自首した者である旨具体的に主張するに至り、被告人乙も、自らに対する公訴事実について、第一回公判では、意見陳述を留保し、第二回公判でこれを否認し、その後これを認めたものの、その供述内容は変転し、かつ、曖昧なまま、審理は終結することとなった。

そして、この間、本件審理においては、事件発生当時、現場に入り、Aを殺害したのは、被告人甲が捜査段階で認めていたとおり、同被告人独りであったのか、それとも、同被告人が公判開始後に主張するように、丙と丁も入り、更に丁がその犯行に及んだ事実を認めうる余地があるのかの事実をめぐって証拠調べが重ねられ、丙と丁も証人として供述し、いずれも、事件当時、現場へ赴いたのは被告人甲独りであり、両名はその階下で待機していた旨供述し、同被告人の供述と真向から対立することとなった。

ところで、被告人両名の捜査段階における供述は、被告人らが本件犯行に及ぶべき動機について、首肯するに足りないものがあり、また、右供述には、事件発生の経過についても不自然な点が窺われるうえ、無視し難い虚偽、虚構を含み、かつ、客観的証拠とも矛盾する点が認められるなど、全体としてその信憑性を疑わしめるものがあり、被告人甲が真実本件犯行に及んだものと考えると、いくつかの疑問が生ずることとなった。

そして、本件審理を経て、右の疑問が解消されず、更に新たな疑問が生じ、かつ、それらが深まることとなった。

その大部分については、すでに各所において指摘し、或いは、その点の検討を加えてきたが、今、ここにその主な点を改めて列記すると、以下のとおりである。

(1) 被告人ら一行が○○アパートに赴くまで、Bを求めて率先して行動していた丙と丁が相手の事務所の在る同アパートに至りながら、なぜ、わざわざその階下に留り、被告人甲独りが現場に赴くことになったのか。

(2) そもそもBが被告人甲の訪問を受けてこれに応じ表に出て来る事態がありえたのか。

(3) 同被告人は、Bが不在の事務所に何故敢えて侵入するようなことをしたのか。

(4) 同被告人は、当然抵抗したであろうAに対して、どのようにして現場六畳間まで押入れたのか。

(5) 同被告人は、Aと格闘したと供述するが、入口の部屋が全く乱れていないのは何故か。

(6) また、外で待っていた三名、殊に階下付近に居た丙と丁がその物音を聞かなかったと述べるのは何故か。

(7) 同被告人が、なぜ、けん銃を携帯していたのか。

(8) そのけん銃を、なぜ、いつ、どのようにして準備したのか。

(9) 同被告人が、当時けん銃を持参し、かつ、現場に踏み込む程の意欲を有していたとすれば、数分前までいた××マンションでは、なぜ丙、丁に加担せずに、消極的行動に終始していたのか。

(10) 同被告人が供述するAとの格闘から想像されるべき負傷がA(特に胴以下の部分)にも同被告人(身体の全部)にも認められないのはなぜか。

(11) 同被告人はAに対してどのようにして至近距離から銃撃する程の優位に立てたのか。

(12) そのような優位に立ちながら、なぜ射殺するようなことになったのか。

(13) 同被告人が供述する被弾直後のAの体位とBらが発見した際のAの死体の向きが大幅に異なるのはなぜか。

(14) 本件直後のころ、同被告人と丙、丁が予定を変え、慌しく同じ車で上京したのは何故か。

(15) また、その後間もなく、被告人乙らも丙興業事務所を引き揚げたのはなぜか。

(16) 被告人甲ら一行がわざわざ福生のマンションに立寄ったのはなぜか。

(17) 丙や丁が同被告人から犯行を打明けられながら、使われたけん銃も確かめたり出所も質さなかったのはなぜか。

(18) 被告人甲がA殺害の実行者として自首しながら、その供述によれば当然硝煙反応や血痕が認められるべき上衣を持参しなかったのはなぜか。

(19) 丙、丁でなく、運転もしない被告人乙が、被告人甲と一緒に共犯者として自首したのはなぜか。

(20) 被告人両名とも本件の犯人として自首しながら、当初からなぜ自らの罪責の程にかかわらない多くの虚偽、虚構の供述をし、被告人甲はなぜ頑なにその供述を維持しようとしたのか。

(21) 丙、丁の証言どおりだったとするならば、何故その後、捜査官から所在をくらましたり、丁がその後捜査官に対して上京の経過について偽りの供述をしたのか。

(22) 被告人甲は、何故所属する組の幹部である丁に対して自らの罪責を負わせようとし、延いては、組織としてのD睦会から敵視されかねないような新事実までも披瀝するに至ったのか。

被告人甲が本件公訴事実にかかる犯行に及んだものと考えると、以上のような疑問が生じ、本件全証拠によるも到底これを合理的に解消することができない。

検察官は、論告において、現場の状況、被告人甲のズボン上の血痕その他客観的証拠によって、同被告人の本件犯行を証明しえた旨主張するが、右各証拠がそのようなものとはなりえないものであることはすでに詳述したとおりである。

他方、本件の事件の背景、事件発生に至る経過、現場の状況、事件後の経過を全体として考察すると、被告人甲が述べるように、事件発生当時、現場には、同被告人のほか、丙と丁も現場に入り、かつ、そのような事態が生じた蓋然性が高く認められ、そのことを前提として前記疑問にかかる各事項を検討すると、いずれも、それなりに辻褄の合う経過、状況のものとして理解することができ、しかも、新たに解決し難い疑問の生ずるところがない。

このように、本件公訴事実にかかる被告人甲の犯行、すなわち、検察官が訴因として維持するA殺害の実行行為並びに右殺害現場におけるけん銃及びけん銃用実包所持の各事実は、その認定を拒むべき合理的疑いが数多く存し、到底これを解消しえないものである。

そして、被告人甲に右A殺害の実行行為の事実が認められない以上、正犯の同被告人の右殺人のために見張りをつとめ、これを幇助したとする従犯の被告人乙の公訴事実についても犯罪の成立を認めることはできないこととなる。

第六  結語

以上の次第で、被告人両名に対する各公訴事実は、いずれもこれを認めるに足りる証拠がなく、その犯罪は証明がないことに帰着する。

したがって、被告人両名に対しては、いずれも、刑事訴訟法三三六条に則り無罪を言渡すべきこととなる。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岩垂正起 裁判官 氣賀澤耕一 裁判官 桐ケ谷敬三)

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